オリンピック選手の自己管理能力がいかにすごいか小松裕の「スポーツドクター奮闘記」(2/2 ページ)

» 2012年06月13日 08時00分 公開
[小松裕(国立スポーツ科学センター),ITmedia]
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高所での単独トレーニングを可能にしたもの

 トップアスリートの自己管理能力というと、今から20年前の記憶が鮮明に蘇ります。

 バルセロナオリンピック直前の1992年6月に、スポーツ医学の師匠、川原貴先生から電話がかかってきました。「メキシコで高所トレーニングしている陸上の選手から連絡があって、血液検査で肝機能検査の数値がだんだん高くなってきたって言うんだ。帰国させようと思うんだけれど、小松君診てくれない?」

 私はもともと消化器内科医ですから肝臓は専門です。急遽帰国したその選手は、東大病院の私の外来にやってきました。3日ほど前からちょっとだるくなったような気がするとは言っていますが、熱もなく元気です。川原先生から電話があったとき、「メキシコにいるのにどうして肝機能検査をしているのだろう」と思ったのですが、その謎はすぐに解けました。

 彼は、たった一人で、メキシコでトレーニングをしていました。自分の身体の状態を常にチェックしながら、自分で日々のトレーニングメニューを決めていました。コンディションをチェックするために、体重、起床時の脈拍、体温、尿検査を毎日行い、それを日誌に記録していました。さらに、10日ごとに現地の病院へ行き、血液検査を定期的に行っていたのです。高所トレーニングを始めてから1カ月後、肝機能の指標であるGPTが100を超えたことに気付いた彼は、自覚症状は全くなかったものの、練習量を半分に落としてトレーニングを続けていました。しかし一週間後、GPTが300を超えたため、これはおかしいと川原先生に連絡して高所トレーニングを中止し、帰国したのです。

 精密検査を行った結果、急性肝障害の原因はすぐに診断がつきました。「伝染性単核球症」というEBウイルス感染が原因の、若者に時々見られる感染症でした。この病気は、のどが痛くなったり、リンパ節がはれたり、発熱したりという風邪のような症状とともに、急性肝障害を起こす病気です。

 通常はそうした症状が出てから患者は病院で受診するのですが、彼の場合、そのような症状が出る前に診断がついてしまったのです。結果的には、診断して3日後に症状が出たのですが、もう原因は分かっているので、あわてることはありませんでした。入院もさせず、血液検査の数字を見ながら徐々に練習を再開させ、それからわずか50日後のバルセロナオリンピックに無事出場できました。

 「こんなにすごい選手がいるんだ」と本当にびっくりしました。自分の身体のことを知り、コンディションを最善に保つために現地の病院にまで行って採血し、その結果を基に練習メニューまで調整する。しかも、それをたった一人で行っている。症状が出てから帰国したのでは、おそらくバルセロナオリンピックに出場できなかったでしょう。藤原選手を見ていると、20年前のこの偉大なオリンピック選手のことが思い浮かぶのです。

 この偉大な選手の名前は小坂忠広さん。競歩の第一人者として、ソウル、バルセロナ、アトランタと3回のオリンピックに出場しました。選手寿命が長くなった現在では、オリンピックに3度出場することはまれではありませんが、当時はとても大変なことでした。しかし、それだけ自分をしっかり見つめ、コントロールする能力があった小坂さんだからこそ納得もできます。現在は指導者として大活躍する小坂さん。自分のそんな経験も後輩たちに伝えているはずです。この時、スポーツ選手のセルフコンディショニングの重要性を再認識した私は小坂さんの経過を症例報告として論文にしました。(小松裕、川原貴、白鳥康史、小俣政男;高所トレーニング中に伝染性単核球症を発症したが、早期診断、的確なトレーニング指導により、発病2ヶ月後のオリンピックに出場可能であったトップアスリートの一例、臨床スポーツ医学11、1209-1211、1994)

 自分のことをよく知り、それをコントロールする能力というのは、スポーツ選手だけでなく、我々にとっても、日々万全な体調で仕事に臨むためには大事なことです。オリンピック選手たちの、そんな素晴らしい取り組みを知れば、ロンドンオリンピックの応援もきっと力が入ることでしょう。

小坂忠広選手(右)と著者。アトランタオリンピックで 小坂忠広選手(右)と著者。アトランタオリンピックで

著者プロフィール

小松裕(こまつ ゆたか)

国立スポーツ科学センター医学研究部 副主任研究員、医学博士

1961年長野県生まれ。1986年に信州大学医学部卒業後、日本赤十字社医療センター内科研修医、東京大学第二内科医員、東京大学消化器内科 文部科学教官助手などを経て、2005年から現職。専門分野はスポーツ医学、アンチ・ドーピング、スポーツ行政。



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