皆さん、お好み焼きはお好きですか? 私は大好きです。
お好み焼き屋は現在全国に1万8745軒あり、人口10万人当たりの店舗数は14.75軒です。全国で多いのは広島県の人口10万人当たり64.48軒、なんと全国平均の4倍以上です(データ出典 企業統計調査2006年)。
広島にはお好み焼き専用ソースなどを製造販売するオタフクソースがあり、同社が行っているさまざま々な活動がお好み焼きの普及に一役買っています。地元の小学校へ出向いて教室を実施したり、地域のイベントでお好み焼きを焼いて提供したり、お好み焼きに関する歴史の研究や食べ方の紹介、エッセーの出版、お好み焼き博物館の建設など、お好み焼き文化の普及に努めているのです。
焼け野原で生まれた爆弾ソース
広島お好み焼きの原型は「一銭洋食」と言われ、満月のように丸くメリケン粉の生地を引き、魚粉やとろろ昆布、刻みネギなどの具材をわずかに乗せたものでした。屋台や駄菓子屋で売られる小学生のお小遣いでも買える人気の食べ物で、焼き上がった一銭洋食を真ん中で半月型に折り、ウスターソースか醤油、または両方を混ぜたものを塗って新聞紙にくるんで、フウフウしながらかぶりつく様子が、戦前はあちらこちらで見られたものです。
しかしこうした光景は、戦争(第二次世界大戦)によって失われてしまいました。広島に世界で初めての原子爆弾が落とされ、一瞬にして焼野原になってしまったからです。
食糧不足で飢え死にする人もいるような状態でしたが、広島の人たちは復興に向け頑張りました。まず、広島駅前などの中心地に闇市の露店が並びます。それらはやがてバラック建ての店になり、戦前の一銭洋食を売る店や、夫を戦争で亡くした女性が自宅で商うお好み焼き屋も登場しました。広島に「○○ちゃん」というお好み焼き屋が多いのは、こうした戦争寡婦の名前が屋号のルーツに持つ店舗が多いからです。
一銭洋食はこのころから野菜や麺などの具材が入るようになり、子どものおやつから立派な大人の主食になっていきました。
お好み焼きのソースとして有名なオタフクソースは、大正11(1922)年に酒・醤油卸小売店「佐々木商店」としてスタートしました。昭和13(1938)年に創業者佐々木清一が、「みんなが笑顔で幸せになるように」との願いを込めた「お多福酢」をつくったのが食品製造の始まりです。
ウスターソースの製造を始めたのは、戦後、まだ町が混とんとしていた昭和25(1950)年のことでした。しかしすでにいくつかのメーカーがあり、販路開拓に苦労した佐々木商店の社員は、ウスターソースを直接飲食店や屋台に売りに行きました。その中には、一銭洋食から発展したお好み焼き屋も含まれていました。
当時のお好み焼き屋は、お好み焼きにウスターソースをかけていました。しかしサラサラのウスターソースは熱い鉄板に流れ落ちてあっという間に蒸発してしまうため、ケチャップや刻んだ野菜や果物をソースに混ぜてとろみを付けるなどの工夫を店主たちはしていました。
しかしこれらを煮炊きすると、火力と酸で釜が半年もしないうちに使い物にならなくなってしまいます。釜をいくつもつぶしているとなげく店主に「うちがお好み焼き用のソースを作りますよ」と声をかけたのが、お好み焼き専用ソースを開発することになったきっかけです。
ソースが製品化されるまでには、長い時間がかかりました。試作を重ね、お好み焼きにぴったりの味になったと思うソースをお好み焼き屋に持っていくのですが、「甘過ぎる」「酸っぱい」と店主の態度はけんもほろろです。しかし佐々木商店は諦めませんでした。要望を聞いては商品を作り直し、店主とのキャッチボールを積み重ね、昭和27(1952)年にお好み焼き用ソースを完成させました。
発売直後は爆弾ソースと呼ばれることもありました。なんと当時のお多福ソースは、ときどき「爆発」したのです。
低塩・低酸元仕込みのソースは保存性が低く、酵母が働いて炭酸ガスが出ます。瓶の栓が飛んだり、ボーンという音とともに瓶が破裂して真っ黒なソースが天井に飛び散ることもあり、しばしば苦情も寄せられました。
しかし、商品に人体に害を及ぼすかもしれない添加物や防腐剤は一切使わないというのが創業者佐々木清一の方針です。爆弾ソースと揶揄されようとも、人工的な発酵を抑えるような物は使いません。幸いにも素早いクレーム対応と、お客さまの声に真摯に耳を傾ける姿勢のおかげか注文が途切れることはなく、その間に専門家に相談したり、独自の研究を続けたりして爆発問題を解決していきました。
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