「モノ」より「コト」の時代――元気な社員がお客さまを感動させる:気鋭の経営者に聞く、組織マネジメントの流儀(1/2 ページ)
横河電機の社内ベンチャー制度から生まれたキューアンドエーは、お客さまの事前期待を超えて感動を分かち合うことを目指している。
キューアンドエーは1996年に横河電機の社内ベンチャー制度から生まれた横河マルチメディアが前身となる会社だ。ICTデジタル製品関連のテクニカルサポート事業やコンタクトセンター事業を展開している。企業理念は「感動共有企業」。お客さまの事前期待を超えて感動を分かち合うことを目指している。起業してから最初の7年は赤字が続き、次の8年目で黒字に回復。年々その規模を拡大している。諦めることなくついには成功をつかんだ金川裕一会長の成功への鍵とは何だったのだろうか。
「IT時代の街の電器屋さん」をコンセプトに社内ベンチャー制度からスタート
中土井 キューアンドエーは現在どのような事業を行っているのですか。
金川 パソコン、プリンター、情報家電などの故障トラブルや、操作に関わる疑問などを解決するICTデジタルサポートサービスを提供しています。その他、コンタクトセンターサービスやコンタクトセンターに特化した人材派遣業を展開しています。現在、キューアンドエーグループ全体での売り上げは約171億円(2015年3月期)です。
キューアンドエーの前身は、1996年に当時私が働いていた横河電機で社内ベンチャーからスタートした横河マルチメディアという会社です。
中土井 社内ベンチャーとしてスタートしたときの話を聞かせてください。
金川 私が37歳のとき、横河電機の社長が社内の人間7人を集め、新しいITビジネスのプロジェクトを始めるよう指示したのが始まりです。そのメンバーで話し合って出てきた「IT時代の街の電器屋さん」というアイデアがキューアンドエーの原型になっています。事業化を目指し、メンバーで話し合いながら企画書にまとめて何度も提案をしました。
社長からは店舗も在庫も持つなといわれていたのですが、自分たちはどうしても店舗を構えたいという思いがありました。社長の意向に沿わない提案でしたので、提案を却下され続けました。メンバーの中には、社長のいうとおりにやらないといけないのかと不満を持ち、プロジェクトを降りていく人もいたほどでした。4回目の提案で私がリーダーとなり、店舗も在庫もありの事業プランを懲りずにプレゼンしました。商社から出資するという申し出をもらっていたこともあり、やっとのことで社長に認めてもらいました。10億の損失までだったら許してやると言われて、事業が本格的に始動しました。
キューアンドエーに専念するため転籍。自身の給与をゼロに
中土井 事業を始めたのはいいものの、最初は失敗の連続だったそうですね。
金川 全くうまくいきませんでした。会社をつくってから4年で10億の損失を出してしまったので、そのときにいったん会社の全てを清算しました。その後、2001年にコールセンター事業を展開しているキューアンドエーと事業統合し、店舗と在庫を持たない新しい体制で事業を再スタートさせました。主に訪問サービスやコールセンターのサービスサポートに特化した事業を展開していました。
その頃、横河電機はIT事業部をつくり、私はそこの戦略室長に指名されました。キューアンドエーの業績は相変わらず大赤字だったにもかかわらず、キューアンドエーの社長とIT事業部戦略室長を兼務することになってしまい、当時は勤務時間も半々くらいで働いていました。
キューアンドエーは再スタート後も業績が伸びず、社員の賞与や給与をカットすることで存続していくのがやっとの状態でした。そんな状況の中でも、私は横河電機の社員として出向しキューアンドエーの社長という立場だったので、給与は下げられることはありませんでした。でも、社員の給与はカットしているのに、社長の給与を下げることはできないなんでおかしいですよね。自分で自分の給与を決められない状態で、社員は付いてきてくれるはずがないと思い、横河電機を退職することを決意し、2003年にキューアンドエーへ転籍しました。転籍してからの1年間は自分の給与を地方税支払いのための10万円だけにしたので、実質的には給与ゼロでした。その1年間は金融機関から借金をして何とか乗り切っていました。
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