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瀬島龍三氏、「マネジメントの真髄」を語る――メディア取材の最後の勇姿

「昭和史の参謀」と言われた故・瀬島龍三氏。メディアの取材として、おそらくその最後の勇姿を収めたのが『月刊アイティセレクト』(『ITmedia エグゼクティブマカジン』の前身)2006年1月号である。「マネジメントの真髄」における氏ならではの見識をあらためてご紹介する。

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 9月4日、95歳の天寿を全うされた瀬島氏は、第二次世界大戦中の大本営陸軍参謀から実業界に転じた異色の経営者だった。

 陸軍士官学校、陸軍大学校を首席で卒業し、20代で大本営に加わり、終戦後のシベリア抑留生活を経て帰国。その後46歳で伊藤忠商事に入社し、嘱託からわずか4年で取締役に就き、専務、副社長を経て会長まで上り詰めた。伊藤忠商事では、当時繊維中心だった同社を攻めの経営で総合商社に脱皮させる基盤をつくった。

 経営の第一線を退いてからは、中曽根康弘元首相の有力ブレーンとなった。伊藤忠商事の会長を退いた1981年には、中曽根元首相が行政管理庁長官時代に立ち上げ、電電公社の民営化などを答申した臨時行政調査会(第2次臨調)の委員に就任。臨調会長だった土光敏夫氏の補佐役として政治家との交渉にも積極的に動き、「臨調の官房長官」と呼ばれた。中曽根政権下でも多くの要職を歴任。外交、政治、経済面で大きな発言力を持っていた。

 2000年に伊藤忠商事の特別顧問を退いた後も、日本テレビ放送網の監査役や亜細亜大学を運営する亜細亜学園の理事長などを務めていた。山崎豊子氏の小説「不毛地帯」のモデルになったとされる。

故・瀬島龍三氏
故・瀬島龍三氏

 先週の10月17日、東京・築地本願寺において執り行われた伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬には、中曽根元首相をはじめ瀬島氏が支えた歴代の首相が参列した。

 まさしく「昭和の参謀」と言われた瀬島氏へのメディアの取材として、おそらく最後の勇姿を収めたのが『月刊アイティセレクト』(ITmedia エグゼクティブマカジンの前身)2006年1月号(2005年11月29日発売)である。本号から新連載としてスタートした経営コンサルタントの西野弘氏(プロシード社長)による対談企画の第1回のゲストとしてご登場いただいた。西野氏が瀬島氏から長きにわたって薫陶を受けていたこともあって、快く西野氏との対談を受けていただき、2005年10月31日に取材にお伺いした。

 対談のテーマは「マネジメントの真髄」。瀬島氏からは「マネジメント、それは“本文”をもって生きること」との明快なメッセージをいただいた。穏やかな語り口ながら、時折みせる険しい表情が印象的だった。

 瀬島氏のご冥福をお祈りしつつ、メディアの取材ではおそらく最後の勇姿である西野氏との対談記事をITmediaエグゼクティブに掲載させていただく。

 また、このほど『月刊アイティセレクト』から新装刊した『ITmedia エグゼクティブマカジン』12月号(10月29日発行)において、本対談企画の総括編をお届けしているが、その冒頭で瀬島氏への西野氏のコメントを掲載しているので、最後にご紹介しておく。新装刊の『ITmedia エグゼクティブマカジン』もぜひご一読いただければ幸いである。

――以下、『ITmedia エグゼクティブマカジン』12月号「西野弘のとことん対談・総括編」より抜粋。

本誌 第1回のゲスト、瀬島龍三氏との対談が行われたのは、ちょうど2年前、2005年10月31日でした。瀬島氏は去る9月4日、95歳の天寿を全うされましたが、対談では穏やかな語り口の中で、時折みせる険しい表情が印象的でした。

西野 そうですね。でも、築地本願寺の葬儀に飾られた遺影は、やさしいお顔でしたよ。波乱に満ち、かつ過酷な生涯を送られた方でしたから、我々には知りえない苦難と憂いを、その笑顔の中に隠して逝かれたような気がします。瀬島先生が我々に残されたメッセージは、「本分」の二文字。つまり、人それぞれに課された“つとめ”を果たせ、ということです。瀬島先生の道徳律は、陸軍幼年学校以来の軍人教育で培われたものだと思います。

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