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【第15回】決して人を切らなかった出光興産の創業者ミドルが経営を変える(1/3 ページ)

「派遣切り」をはじめ企業のリストラの惨状を伝えるニュースがあふれている。戦後間もない日本でも多くの企業で人員整理が断行されたが、出光興産の創業者、出光佐三は従業員を「宝の山」と信じて疑わなかった。

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 出光佐三。この名前をどれほどの読者がご存じだろうか。出光とあるので「IDEMITSU」のガソリンスタンドはすぐに思いつくが、佐三がその創業者であり企業経営の歴史に名を残すほどの人物だったことを知る方は多くないだろう。

 バレンタインデーの「日本経済新聞」の社会面に、政府公報(厚生労働省)が大きなスペースを割いて掲載されていた。「緊急雇用対策を実施しています!」という見出しの下には、事業主に向けては「雇用調整助成金」など、失業中、求職中の人々に向けてはハローワークにおける相談体制の整備や生活支援など、それぞれ簡単な説明がなされていた。大学の教員としては最も気掛かりである採用内定を取り消された学生に向けての支援策も記されていた。

 いわゆる「派遣切り」のみならず、パイオニアのように正規従業員も人員削減の対象だと発表する会社もある。あるいは、富士通や東芝のように、雇用は維持するもの労働時間を削減して賃金カットに乗り出すために、従業員の(これまで禁止してきた)副業を認めるとの報道もある*1。昨年10月には4.6%の企業が「2010年春は新卒採用の予定なし」だったが、今年1月には8.0%に上昇しているとの調査もある*2。雇用をめぐるニュースがのべつ幕なしの日々である。

「反対」を繰り返した人生

 佐三は、第1次世界大戦勃発前の明治44年(1911年)に出光商会を北九州の貿易港、門司に設立した。日本石油(現、新日本石油)の特約店として機械油(潤滑油)販売業を営む小さな船出だったが、それが後に民族系最大の石油会社となる出光興産の第一歩となる。佐三自身も、業界さらには国の常識に彼独自の哲学を持って抗い、日本の石油王と称されるまでになった。

 略年譜を見てもらえば分かるように、佐三の歴史には「反対」の二文字がつきまとう。

出光佐三 略年譜(出所:四宮正親「官僚統制に挑戦した企業家活動――出光佐三と松永安左エ門」法政大学産業情報センター、宇田川勝編「ケースブック 日本の企業家活動」有斐閣)
出光佐三 略年譜(出所:四宮正親「官僚統制に挑戦した企業家活動――出光佐三と松永安左エ門」法政大学産業情報センター、宇田川勝編「ケースブック 日本の企業家活動」有斐閣)

 創業当時、ひとくくりに「機械油」とされていたのを、納入先の機械の特性を見極め、それぞれに適合した油を提案営業することで事業に弾みをつける。当時、特約店ごとに縄張りがあるという商習慣に疑問を持ち、「陸上には縄張りがあるかもしれないが、海上にはなかろう」との理屈を持って、同業者の反発も意に介さず、漁船向けに海上で給油するサービスも展開して売り上げを拡大した。

 戦時中は、政商となることなく軍と対立しつつも、取り扱う油の高品質さや営業マンの奮闘を武器にして、満州、朝鮮半島、台湾の市場で手広く事業を展開した。

 戦後の1953年には、国際石油資本(石油メジャー)から離脱したイランから、自社のタンカーである日章丸で直接石油を輸入することに成功した。イランと石油国有化をめぐって紛争中だった英国を敵に回しての成功劇は、出光の名を世界中に知らしめることとなった。1957年には徳山製油所を建設し、輸入、精製、販売の一貫体制を整えることとなる。1981年、96歳で死去する。


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