全国の名産を愛知で作る、スギ製菓:日本の元気ダマ(1/3 ページ)
このままでは経営していけない!――異物混入事故、大口取引先倒産のダブルピンチを乗り越えるためにスギ製菓が選んだのは、既存流通構造からの脱却だった。
愛知県は全国のえび煎餅製造量の80%を占めるえびせん王国です。三河湾周辺には、約100社の中小メーカーがあります。
しかし、お煎餅製造の市場は縮小傾向にあり、米菓製造業全体の事業者数は10年前と比べて約3割減少しています。中小メーカーの体力が総じて弱く、卸問屋に販売を依存しているため、値引きや高率な販売手数料負担など、厳しい商売を強いられてきたからです。
そこで今回は、既存の流通構造から脱却し、地域とともに成長してきたお煎餅屋さん「スギ製菓」をご紹介しましょう。
スギ製菓は、杉浦三代枝氏(以下杉浦社長)が1970年(昭和45年)に事業をスタートさせたお煎餅製造会社で、かつては卸問屋を通して生協や大手量販店に商品を卸していました。食品スーパーが台頭し始めたころということもあって、創業当初はこの方法でも利益が出ていましたが、問屋やスーパーの力が強くなってくると、徐々に利益が出ないようになってきました。
卸問屋へのお煎餅1枚の販売価格は、直接販売の半分。しかも、集金に行けば2時間も待たされた上に値引き交渉され、支払手形3カ月といった厳しいものでした。
2度のピンチ
1988年(昭和63年)、スギ製菓はあってはならない事件を起こしてしまいます。生協に納品したイカ煎餅に釣針を混入してしまったのです。幸い買われた方は釣針を食べずに済みましたが、釣針が入っていたことは大きなクレームとなり、生協と取引停止になりました。
しかし、スギ製菓は負けませんでした。この事件をきっかけに1990年(平成2年)に伏見工場(現中江工場)を建設し、品質管理の徹底を心掛けるようになりました。
そして8年後、2度目の危機がスギ製菓を襲います。大手の菓子問屋が倒産したのです。スギ製菓は売り上げの実に80%を、この問屋経由であげていました。
職人気質の杉浦社長は良い商品を作ることだけを考えてきましたが、このとき「職人のままでは経営ができない」と考えるようになりました。そこで中小企業同友会で勉強していた「自立型企業作り」と「地域社会との共創」に、経営をシフトすることにしたのです。
販売チャネル開拓:OEMで全国に美味しさを
自立型企業作りとしてスギ製菓が取り組んだのは、「OEM事業の開拓」と「直営店の経営」です。
きっかけは、とあるタコの産地のお菓子屋さんからの「お煎餅をグラムでビニールに入れて売ってください」という注文でした。裸でお煎餅を発送すると割れ物が多くなるので不思議に思い、杉浦社長は現地まで見に行ったそうです。するとそのお店では、スギ製菓のお煎餅を2枚ずつ個別袋に手詰めし、最後に箱に入れて自店舗ブランドの商品として販売していました。
その光景を見て、杉浦社長は怒ったのでしょうか?
いいえ、怒っていません。ひらめいたのです。製造から包装まで、そのお菓子屋さんだけの商品化を思いつき、「是非、うちで手伝わせてください」と申し出たのです。これが、OEM事業第1号となりました。その後、函館のイカ煎餅、福岡の明太子店と共同開発した明太煎餅と次々に範囲を広げ、いまやスギ製菓のOEM事業は売上の半分を占めるまでに成長しました。
地元の名店へ直接販売すると、卸問屋への倍の価格で売れます。各地の地元名店にチャネルを変え、商品開発に力を入れることで、スギ製菓は卸問屋依存型経営から脱皮できたのです。
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