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最先端テクノロジーの起源は仏具なぜ島津製作所はノーベル賞企業になれたのか〜歴史から学ぶ成長する企業の必須要素(1/2 ページ)

仏具は日本のものづくりの原点であり、京都の仏具商からは最先端テクノロジーをけん引するグローバル企業が生まれている。

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『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』

 唐突だが「仏具」は、ご先祖様や神仏をお祀りする伝統的宗教用具である。極めて前時代的なアイテムのように思う人が多いのではないか。

 さにあらず。実は、仏具は日本のものづくりの原点であり、京都の仏具商からは最先端テクノロジーをけん引するグローバル企業が生まれているのだ。それが島津製作所である。新型コロナウイルスに関しても、いち早くPCR検査試薬を開発するなど、注目を集める企業だ。本稿では今から150年前にさかのぼり、島津製作所の成り立ちを追いつつ、日本の製造業の原点に迫りたいと思う。

 最初に宗教用具の国内製造出荷額を見てみよう。ピークは1990(平成2)年の1299億円で、以降、減少傾向にあり、2016(平成28)年時点で442億円となっている(経済産業省製造産業局調べ)。最盛期の3分の1の規模である。どうみても斜陽産業と言わざるをえないが、その背景には寺院を取り巻く経済環境の減退がある。

 その実、戦後からバブル期にかけて仏具業界は成長産業だった。かつて第2次大戦下では、全国の寺が空襲で焼かれた。多くの檀家(だんか)も戦死した。寺院の再建と、檀家の供養心が相まって、戦後しばらくは寺に多くの仏具が納められた。高度成長期からバブル期にかけて、高額の仏具が飛ぶように売れ、檀家は競うように寺に寄進した。

 この頃は地方の大きな寺院は、布教のために都市部に分院を設けることがあった。ターゲットは田舎から出てきた者たちだ。故郷の菩提(ぼだい)寺の替わりに、東京の分院に参ってもらう。こうした分院にも仏像を複数置くことになるので、仏具業界に需要が集まった。

 分院だけではない。山門を新調したり、客殿を造り替えたり……。この時期、好景気の追い風を受けて檀家からの寄進が集まった寺院は、拡大路線をたどる。ところが、バブルは崩壊。地方の人口減・高齢化によって寺院が疲弊し始めると、寺院は仏具を購入する余裕がなくなり、状況は一変している――というわけだ。

 例えば仏具の1つに仏壇があるが、特に近年、都会のマンション家庭では、古色蒼然とした厨子入りの仏壇を設置しない傾向にある。そもそも、今どきの新築分譲マンションで仏間を備える物件はほぼ皆無だ。

 國學院大學の石井研士教授は仏壇の保有率を経年調査している。戦後、間もなく仏壇の保有率は80%(出所:R. P.Dore, City Life in Japan - A Study of a Tokyo Ward, Routledge & Kegan paul, London, 1958)であったが、1981(昭和56)年には63%(出所:朝日新聞)にまで下落。直近の2009(平成21)年には48%(出所:國學院大學「日本人の宗教団体に対する関与・認知・評価に関する世論調査」)になっている。

 都市化とともに家庭から、信仰や供養が消えてきているのだ。いま仏具業界は過渡期にある。だが、150年前にも仏具業界のピンチがあり、鮮やかな事業転換で乗り越えた京都の老舗企業が1875(明治8)年創業の島津製作所なのだ。

 近年は社員の田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞したことで一躍、注目を浴びた精密機器メーカーだ。直近では新型コロナウイルスのPCR検査用試薬を先駆けて開発し、話題になった。だが元は仏具商であったことは多くの社員も知らない事実だ。


初代島津源蔵肖像

 島津製作所を創業したのは島津源蔵という人物。源蔵は西本願寺に出入りの仏具商に生まれた。そこでは具足と呼ばれる、寺院の内陣に置かれる香炉、花生け、燭台、高坏、仏飯器など鋳物でできた仏具を手掛けていた。当時、京仏具は江戸時代には御所や多数の寺社を取引先に抱え、安定して需要を得ていた。

 ところが明治維新時、大きな時代の変化に直面する。新政府は王政復古、祭政一致の国家づくりを目指し、神仏分離令を布告。これまで混じっていた神道と仏教を切り分けよ、ということになった。神仏分離令はその後の寺院の破壊行為「廃仏毀釈」の呼び水となる。

 折しも、京都は東京への遷都によって荒廃する。京都では都市再生のための、殖産興業政策の手段として廃仏毀釈が行われた。具体的には、寺から仏具などの金属を供出させ、インフラや武器などに転用させていったのである。実際、当時の四条大橋は仏具が溶かされて建造された。仏具業は、危機的状況に追い込まれ、島津源蔵の店も例外ではなかった。

 一方で、新しい産業ののろしが次々と上っていく。1870年、化学技術の指導を目的にした舎密局や殖産興業を推進する本部である勧業場などが設立されると、いよいよ京都の近代化が加速する。

 仏具業界の先行きを案じつつも源蔵はいまこそ、産業構造の転換期にあると嗅覚鋭く察知した。源蔵は舎密局に出入りを始めると、持ち前の探究心を発揮し、理化学の知識と技術を瞬く間に習得していったのである。

 鋳物仏具で培われた技術は決して無駄ではなかった。輸入された教育用機器の修理などに大いに生かされると、理化学機器の製造の受注を請け負うようになっていく。

 源蔵の新規事業の追い風になったのが、京都が全国に先駆けて取り組んだ新しい時代の教育計画である。この政策によって京都では1869年に、計64校が一斉に開校している。新政府による全国的な学制の布告は1872年7月のことだから、その3年も前に京都では小学校ができていたのだ。

 さて、学校が生まれれば、さまざまな実験機器が必要になる。源蔵は仏具製造の鋳物技術を理化学機器の開発に転用させていく。「お寺が学校に変わるのは時代の流れや。仏具はもうあかん。いまのうちに科学の知識を習得して、実験器具を手掛けるんや。そうや、西洋鍛冶屋や――」

 時代の変化に飲み込まれるのではなく、それを逆手にとって推進力にしていく。そうして、島津源蔵は理化学機器の製造・修理を手掛ける島津製作所を創業するのである。

 島津製作所はさまざまな発明・開発を成し遂げることになる。1877(明治10)年には日本で最初に人間を乗せた気球を揚げている。ライト兄弟が飛行機で有人飛行を成功させるのが1903(明治36)年だから、その四半世紀も前に島津製作所の技術で日本人が空を飛んでいたのである。


京都御所で揚げた軽気球

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