“世界のミフネにわらじを履かせてもらった男”寺田農が語る、市川雷蔵、勝新太郎、三船敏郎の思い出:ITmedia エグゼクティブ勉強会リポート(1/2 ページ)
「眠狂四郎」シリーズで知られる市川雷蔵、「座頭市」シリーズで知られる勝新太郎、黒澤監督作品の主演俳優として世界的な人気を誇る三船敏郎。彼らの素顔はどのようなものだったのか。3人との共演経験を持つ俳優 寺田農氏が、思い出を話す。
ライブ配信で開催されているITmedia エグゼクティブ勉強会に1965年に映画デビューした俳優の寺田農氏が登場。寺田氏のこの勉強会への登場は今回で5回目となる。これまで、読書についての講義、森鴎外作品の朗読、参加者からの悩み相談など、さまざまなテーマで話してくれた寺田氏が選んだ今回のテーマは、“昭和の名優たち”。「今だから話せる、昭和の映画製作現場とは」と題し、市川雷蔵さん、三船敏郎さん、勝新太郎さんという、往年の名優の思い出について話す。
五社協定の時代に、文学座所属ゆえに昭和の五大スターと共演できた幸運
寺田農氏は、1961年に18歳で文学座附属演劇研究所に第1期生として入所。同年に三島由紀夫原作の「十日の菊」という作品で初舞台を踏んだ。
「私は18歳でデビューしました。今思うと、若くしてデビューするのは、あんまりよくないよね。役を演じようとしても、当人の中身が伴ってないんだから。まあ、でも若くしてデビューしてよかったことが1つあって、それは当時の昭和の五大スター、石原裕次郎さん(日活)、萬屋錦之介さん(東映)、市川雷蔵さん(大映)、三船敏郎さん(東宝)、勝新太郎さん(大映)、この5人と共演できたということ。これは私の誇りです。彼らは本当に“映画スター”でしたね」(寺田氏)
寺田氏がデビューした当時、日本の映画界では大手の映画会社では「五社協定」が結ばれており、松竹、東宝、大映、新東宝、東映、日活といった映画会社に所属する俳優は、他の会社の作品に出演することはできなかった。文学座所属で、映画会社には所属していなかった寺田氏だからこそ、日活、東映、大映、東宝に所属しているスターたちと共演できたとも言える。銀幕の外にいるスターたちの素顔は、どのようなものだったのだろうか。寺田氏は、ざっくばらんに彼ら3人の素顔について語ってくれた。
銀行員のような物静さから、役に入ると一変 孤独を抱えた美貌のスター、市川雷蔵
1969年、昭和44年7月17日、その日は月へと飛び立つアポロ11号の発射が中継されていました。その生中継中に、ニュース速報で雷蔵さん逝去の報が流れました。僕はその前年、1968年に『眠四郎人肌蜘蛛』で雷蔵さんと共演したばかりだったし、まだ37歳という若さだったから、もう本当にショックでね……。アポロどころではありませんでした。
雷蔵さんに初めて会ったのは、1968年の『眠四郎人肌蜘蛛』の撮影です。京都にある大映の演技課にあいさつにいったら、メガネをかけて紺のスーツを着た銀行員みたいな人がソファに座って新聞を読んでいました。そうしたら、演技課の課長が『雷蔵さんを紹介します』ってね。なんと、このまじめそうな人が雷蔵さんだったんですよ。まったく眠狂四郎っぽさがないから、もうびっくりしちゃって。それで次の日に撮影所のメーク室で会ったら、まごうかたなき“眠狂四郎”その人なんですよ。雷蔵さんという人は、本人の普段の姿と、役柄に入った姿がまったく違う人でした。別の世界で生きている人なんじゃないかと思ったね。
僕は雷蔵さんのファンだったから、生い立ちについていろいろ調べてみました。1931年(昭和6年)に京都で生まれて、生後すぐに歌舞伎俳優市川九団次の養子になり、歌舞伎の世界に入ります。その後1951年に別の歌舞伎の名門の家柄、市川寿海の養子となって、八代目市川雷蔵を襲名しました。歌舞伎の舞台に出ていましたが、なかなかいい役がつかないでいた時に、大映の永田雅一社長からスカウトされて、映画に転身するんです。1954年、23歳くらいの時かな。
雷蔵さんの映画デビューは1954年の『花の白虎隊』という作品です。同じ作品でデビューしたのが、同期の勝新太郎さんです。勝さんは長唄と三味線の家元である杵屋勝東治の次男なんだけど、やっぱり歌舞伎の名門から来た雷蔵さんとは扱いが違いました。雷蔵さんはロケ場所に行く時はハイヤーが迎えに来ましたが、勝さんはマイクロバスで移動だったようで、それで腹を立てて、自前でハイヤーで通っていました。勝さんらしいエピソードだよね(笑)。
雷蔵さんには、実の親と、市川九団次、市川寿海という2人の養親がいます。つまり親が3組いるということ。実の母の存在は16歳くらいから知っていたそうなんだけど、実際初めてあったのは亡くなる3年前くらいです。雷蔵さんは36歳の若さで、養親を含めて3人の母親を見送るという経験をしています。あの雷蔵さんの寂しさというか、孤独の影を感じさせるのは、そういう生い立ちから来ているんじゃないかな。
教えたがりで負けず嫌い、サービス精神旺盛なエンターテイナー 勝新太郎
勝さんは、雷蔵さんと同期だったんですが、1937年(昭和12年)生まれで雷蔵さんより6歳年下なんですね。大映としては、ポスト長谷川一夫として、白塗りの二枚目で売り出したかったらしいんですが、それではなかなか芽が出なくて、『不知火検校』(1960年)、『悪名』(1961年)、『兵隊やくざ』(1965年)といった、クセのある悪役を演じて、その魅力が開花しました。代名詞でもある「座頭市」シリーズは、勝さんの魅力満載で、全26作のシリーズとなりましたからね。
僕は1970年に勝プロダクションが制作した岡本喜八監督作『座頭市と用心棒』で共演しました。これは「座頭市」シリーズの20作目で、勝さん演じる座頭市と、三船さん演じる用心棒が対決するという作品です。
僕はこの時にちょうど結婚して「お金がない」って言ってたら、勝プロはまだ撮影にも入っていないのにギャラを半分くれて、そのおかげで結婚できました(笑)。しかも、撮影中に3日間も休みをくれたんで、撮影の合間に結婚式を挙げて、京都で新婚旅行もできました。
撮影の時に、勝さんは僕に丁寧に、「ここでこうやって、こうしなさい」と全部、演技をつけて教えてくれるんです。教えたがりでね。でも僕も若くて生意気だったから、岡本喜八監督に「監督、勝さんがこう言ってるんですけど、その通りやんなきゃいけませんか?」って逆らったりもしました。勝さんはムッとしてたけどね、でもこの後もすごくかわいがってくれて、よく遊びに連れて行ってくれました。
勝さんと飲みに行くと、最初は3〜4人なんだけど、最後にはなぜか30人くらいの大所帯になってるんですよ。一度、京都で飲んでいた時に、ちょうど北島三郎さんのディナーショーをやっていて、北島さんのショーが終わったら、勝さんまで歌い出してね。その時のお客さんは本当に得をしたよね(笑)。歌もうまくて、人を喜ばせることが好きなサービス精神の旺盛な人でした。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.