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小林栄三 EC事業への投資――新しい伊藤忠つくろうじゃないか!(前編)西野弘のとことん対談(2/2 ページ)

信販事業、コンビニエンスストア、オンライン証券などに強みをもつ伊藤忠商事の事業群を貫くのはITであり、その情報産業部門を一貫して牽引してきたのが小林栄三社長にほかならない。“野武士集団”とITにはどんな関係があるのか。

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西野 私が小林さんに初めてお会いしたのは、90年代半ば、ちょうど米国駐在から帰国された頃でしたね。既に情報産業部門の現場責任者の立場にいらっしゃいましたが、その後10年のITの大きな“うねり”をどうみられていますか。

小林 86年から8年弱、米国にいてインターネットの興隆を目の当たりにしていましたから、日本も動き出すな、という予感はありました。96年に伊藤忠インターネットというEC(電子商取引)の会社をつくったんです。だけど、仕事は何もない。とりあえず酒でも売れと、ある展示会で全国の地酒のデモ販売をやったら、翌日、食料部門の販売チャネルから非難轟々、「なんてことするんだ」と――。社内でも怒られましてね、これは諦めました。

西野 その頃の伊藤忠は厳しい時期だったんですね。

小林 そう。不良資産の整理でしんどかった時です。リストラの連続で社内に閉塞感もありましたしねぇ。それでも、米国からは新しいビジネスモデルの情報がどんどん入って来る。

西野 新規投資の成功事例として、オンライン証券への進出はどういう経緯だったのですか。

小林 カブドットコム証券ね。97年頃、手を挙げた部下が5人いたんです。しかし、これも大変だった。社内の金融部門は文句をいうし、米国で提携先を探しても「お前のところの財務体質で大丈夫か」と相手にされない。仕方ないから、自分で1から始めようとを固めて、部下5人に証券アナリスト、フィナンシャルアドバイザーの資格を取れ、と命じたんです。彼らが頑張ってくれました。それにしても人がいない。困っている時に出会ったのが斉藤(正勝)さんですよ。

西野 斉藤さん? カブドットコム証券の社長の・・・・・・。まだ若い方ですよね。

小林 当時はやっと30を出たぐらい。246沿線(表参道・渋谷などの繁華街)で遊んでいるような若者でしたよ。鼻っ柱が強くて生意気で、なんだこいつ、という印象でしたが、オンライン証券のビジョンをもっている。「ウチにおいで」となり、彼が「仲間が7人いるから、一緒でいいなら・・・・・・」と言うので、とりあえず3カ月採用したんです。採ってみたら、みんなプロでした。斉藤さんとのがなければ、昨年のカブドットコム証券の株式上場もなかったと思います。

西野 なるほど。まさにインキュベートされたわけですね。これはその後、小林さんが立ち上げた「ネットの森」の先駆けですね。つまり、ECを事業化するタスクフォースを制度化され、自ら“森の番人”に任じられた。その発想は何だったのでしょう。

小林 00年に「ネットの森」を立ち上げた時、僕は情報産業部門の部門長でした。社内には僕と同じ30人の部門長がいた。縦割り組織になっていて、僕からほかの29の部門にはアクセスできない。しかも、1つの事業を興すとなると、さっき言ったような部門間の軋轢があって、ややこしい手続きを経なければならない。これを、ECという切り口で横串を刺すポジションが必要だと思ったんです。社内には閉塞感があって、ネットをやりたくても、くすぶっている若手社員が大勢いた。彼らに、新しい伊藤忠つくろうじゃないか、と働きかけたんです。

西野 つまり、風通しをよくして、意思決定を早くした・・・・・・。

小林 もう即断即決です。大企業の決済のプロセスは稟議書を回して、判子を10個ぐらい捺すんですよ。ネット案件については僕の1個でいい。その代わり責任もとらされますが・・・・・・。98年頃からECへの投資は始まっていて、ピークには伊藤忠本体の案件だけで100件、投資ファンド経由を含めると500件近いリストがありました。それを毎日みて、あれをやれ、これをやれ、と指示する。可哀想に下の者はうろうろしてしまうけど、成功した時の喜びも大きい。

(後編に続く)

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