棚橋康郎「自分の頭で考え、自分の言葉で語る」(前編):西野弘のとことん対談(1/2 ページ)
いまだ“カオス”である日本の情報システム開発――他にも大小のトラブルが相次いでおり「このままでは情報サービス産業は日本経済のアキレス腱になりかねない」と言い放つ“警世の士”がいる。
棚橋康郎(たなはし・やすろう)氏
1941年生まれ、岐阜県出身。63年慶應義塾大学経済学部卒業後、富士製鉄に入社。その後、八幡製鉄との合併によって新日本製鉄となり、95年取締役エレクトロニクス・情報通信(EI)事業部長に就任。97年常務取締役、2000年新日鉄情報通信システム社長、01年新日鉄ソリューションズ社長を経て、現職。05年より情報サービス産業協会会長も務めている。
西野弘(にしの・ひろし)氏
1株式会社プロシード代表取締役。1956年4月生まれ、神奈川県出身。早稲田大学教育学部卒業。ITとマネジメントの融合を図るコンサルティングを中央官庁や企業に展開。「装置社会」から「創知社会」の実現を目指す。教育と福祉がライフワーク。
※月刊アイティセレクト」2006年5月号の「西野弘の『とことん対談』この人とマネジメントの真髄を語る」より。Web用に再編集した。肩書などは当時のもの
ライブドア事件に伴って発生した東京証券取引所の全面取引停止は、いまだ“カオス”である我が国の情報システム開発の現状を浮き彫りにした。他にも大小のトラブルが相次いでおり、「このままでは情報サービス産業は日本経済のアキレス腱になりかねない」と言い放つ“警世の士”がいる。
その人は、新日鉄ソリューションズの棚橋康郎会長――。鉄鋼業から転じ、現在、情報サービス産業協会(JISA)会長を務める棚橋氏は、IT業界の未成熟を憂う。果たしてITは21世紀の基幹産業たり得るか・・・・・・。
西野 棚橋さんは鉄一筋に歩まれ、JISA会長の現在も「俺はITなんか知らない」と平気でおっしゃられる。その直截な発言の原点は、慶大の学生時代に養われたものなのでしょうか。福沢諭吉の“独立不羈”の気風といいますか・・・・・・。
棚橋 いや、平々凡々たる学生でしたよ。私たちの世代は戦後の貧しい時代に育ちましたから、豊かさへの渇望があって、たまたま慶大の経済学部を選んだわけですが、教養課程の2年間は経済の“け”の字も知らずにいました。怠惰な生活を送っていたわけです。3年生になって三田キャンパスへ移る時、このままでは何も分からずに卒業してしまうな、と思いましてね、一念発起して加藤寛先生(現千葉商科大学学長)の研究室を訪ねたんです。直談判で「先生のゼミに入れて下さい」と・・・・・・。
西野 加藤寛ゼミですか。当時の加藤先生はまだ助教授?
棚橋 そうですね。米ハーバード大学から帰任されたばかりで、それほど有名ではなかった。でも、実践的な経済政策を専攻されていて、いきなり「君たちは何も知らない」と言われました。マルクス、シュンペーター、ケインズ・・・・・・、世の中には優れた経済思想家が山ほどいるのに、君たちは何も知らないんだと。先生は毎週、テーマを立てて数冊のハードカバーを推薦されるんです。少なくとも1冊は読んでいかなければならない。最初は何が書いてあるかも分からない。それでもいい、思想に触れるだけでもいいと言われる。それを丸1年続けました。
西野 米国流のゼミですね。個々の知識ではなく、全体を捉える力を養うという・・・・・・。
棚橋 物事を自分の頭で考え、自分の言葉で語る、そういう癖をつけられたと思います。とりわけ、物事にはきで済ませていいことと、構造的に捉えなければいけない問題がある、それが加藤寛ゼミで学んだ最大の資産です。今も私の基本スタンスになっています。
西野 就職先は当時の富士製鉄を選ばれましたが、それも加藤先生の影響ですか。“鉄は国家なり”といわれた時代ですね。
棚橋 経済政策を勉強していたこともあって、官僚か、基幹産業か、経済の中枢で働きたいという希望はありました。私学出身なので民間の鉄鋼会社を選んだのですが、しかし、これもね、直談判で入ったんですよ。
西野 直談判?
棚橋 1-2年生の成績が悪くて、大学から推薦してもらえなかったんです。仕方ないから富士製鉄へ直談判に行きましてね、「受けさせてくれ」と(笑)。最初は「他の会社を頑張りなさい」と言われましたが、たまたま幹部の方が通りかかって、面白い奴がいる、と話を聞いてくれたんです。後日、「あした筆記試験やるから、受ける気があったら来いよ」と電話がありましてね、それで入社できた。
西野 その頃から、思うところは自ら切り拓くタイプだったんですね。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.