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【第7回】武家の歴史に見るミドルの力ミドルが経営を変える(1/2 ページ)

これまで数回にわたり、日本企業においてミドルが経営者を退任に追い込んだ例を紹介した。実はこうした行動は今に始まったことではない。約300年前から既に日本のミドルは「公然」とトップに引導をわたしていたのである。

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 このところ通勤電車では、「リーマン・ブラザーズ」や「AIG」といった言葉が躍る新聞紙面を頻繁に目にする(本連載が掲載されるころには、次の危機が到来し新たな金融機関の名がにぎわせているかもしれない)。少し視線を上げると「便利な都心にMBAコースを開設」との車内広告が目に入った。MBAの文字が引っ掛かり、『MBA式……』などといった本を開くと、「ファイブ・フォース、ポジショニング、リソース・ベース、ゲーム理論」という文字が並んでいた。

 今回の連載は、カタカナやアルファベットを駆使するビジネスの世界で働く人にとれば、古めかしく感じさせる文字、文章が登場する。例えば「御身持宜しからず御慎しみあるべし」あるいは「官吏はその職務につき本属長官の命令を順守すべし。但しその命令に対し意見を述(のぶ)ることを得(う)」のようなものだ。こうした古めかしいものが現代の経営改革のヒントになるのではないか。


 前回、ミドルの声をトップに届けるための仕組みとして、経営者の任免にミドルが関与させるための制度を紹介した。日本の武家社会の歴史をみると、実はこれに類似する慣行的な仕組みがあったことが分かる。

 国際日本文化研究センターの笠谷和比古教授によると、江戸時代の武家には主君と家臣の間に、現代人が武家社会に持つイメージにはそぐわない「主君押込」と称される行為が観察されたという*1。江戸時代の藩は、主君である藩主を頂点とするピラミッド型組織だった。われわれの多くが藩主は絶対的な権限を持つ存在で、君臣間の上下秩序は冒してはいけないものだと思っている。しかし実際は異なり、絶対的でも冒さざるものでもなかった。こうした事実が最近の歴史研究で明らかになった。以下では具体的な事例を通じて、主君押込なる行為がどのようなものであったか見ていく。

藩主を隠居に追い込む家臣たち

 主君押込の例の1つに、江戸時代の久留米有馬藩(21万石)での騒動がある。同藩は九州に位置する外様大名だ。18世紀ごろになると、財政はほかの藩と同様にひっ迫した事態に陥っていた。事態の打開が一刻も早く必要だったため、1706(宝永3)年に第6代藩主となった有馬則維(のりふさ)は、財政の再建と幕政改革に着手することになる。人事に手を入れ、若手人材の抜てき重用を行う(今でいう能力主義的な人材抜てき)とともに、従来から仕える役人48名のリストラを断行する。加えて、意思決定のメカニズムもてこ入れした。それまでの家老合議体制を改め、藩主自らが決定を下す仕組みとした。これにより、藩主のトップダウンで各種の改革が進められることとなった。

 家臣団に対しては、藩内に存在する彼らの知行地すべてを取り上げた。知行地とは、藩主から上級の家臣に対して与えられた土地のことであり、税金・年貢の徴収を含めて一帯を支配することが家臣側に認められていた。しかし知行地の取り上げにより、特権がはく奪され、藩の金庫からの給与支給の形に改められた。

 領民に対しては、新税や夏年貢(秋収穫の米以外の作物への課税)の増徴などを行った。これらは財政再建のためであるとともに、井せきの改修や新田開発など領内の各種事業の推進を目的とした財政収入の増強策だった。

 しかし、藩主の強引な諸施策に対して、家中、領民の間からうらみや嘆きの声が噴出した。特に夏年貢の税率を急激に上昇したことは、農民から激しい反発を買うこととなる。1728(享保13)年8月、久留米藩内一円に5000人超の農民一揆が勃発し、久留米藩は収拾不能の混乱に陥った。

 この混乱に際して家老の稲次正誠(いなつぐ・まささね)は、藩の存亡をかけて事態の収拾に乗り出した。混乱の原因となった抜てき重用者を捕らえ、新税を停止し、失政の責任者である藩主則維を強制的に隠居に追い込んだのである。新藩主には則維の子を立て、藩存亡の危機を脱することに成功した。


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