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行革の獅子と猛烈企業家の顔を併せ持つ男―――土光敏夫【第1回】戦後の敏腕経営者列伝(1/2 ページ)

今から約30年前、土光敏夫という男が行政改革にらつ腕を振るったことを覚えているだろうか。その活躍に、かつて多くの日本人は喝采(かっさい)を送ったものだった。ただし、企業家として知られる土光には、決してありがたくはない異名も数多い。果たして、土光とはどのような人物であったのか――。

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30年も前に叫ばれた行政改革の必要性

 「増税なき財政再建」「行政改革の断行」「特殊法人の整理・民営化」――今日のわれわれにとって、そのいずれもが見慣れた政治的スローガンに映ることだろう。だが、それらは30年も前に掲げられた目標でもあることは、改めて説明するまでもあるまい。当時、日本ではロッキード事件によって田中角栄前首相(当時)をはじめ多くの政財界人が逮捕され国民の政治不信が極限まで高まるとともに、各省庁での天下りや100兆円を超える国債発行残額などが社会問題化していた。

 そうした中、総理大臣の鈴木善行が行財政改革の実現に向け1981年に設置した「第二次臨時行政調査会(臨調)」の会長に招聘(しょうへい)され、冒頭の目標に体当たりで挑んだ人物こそ土光敏夫、その人である。

数々の改革によって日本経済を支えた土光敏夫氏(写真:株式会社IHI提供)
数々の改革によって日本経済を支えた土光敏夫氏(写真:株式会社IHI提供)

国民と同じ目線で多くの支持を獲得

 土光臨調は16兆円を超える日本国有鉄道(国鉄)の累積赤字などシビアな問題に果敢に切り込み、「三公社(国鉄、日本専売公社、日本電信電話公社)民営化」などを柱とする行財政改革答申をまとめ上げ、さらに後の竹下内閣まで続く「ゼロシーリング」(国の予算総枠を前年と同額に抑えること)も定着させる。1986年まで臨時行政改革推進審議会の会長を務めるなど、土光はまさしく行革の獅子であり先駆者でもあった。

 メザシが好物であったことから、付いたあだ名は「メザシの土光さん」。明治男らしい頑固そうな風貌や、相手の立場によらず自身の考えを明確に述べるその人柄、群を抜く行動力、実生活での質素倹約ぶりなど、土光の人柄を物語るエピソードは多い。

 そんな土光を国民は慕った。そのことは、土光の告別式に約1万人の参列者があったことからも明らかだ。もっとも、それも無理からぬことであろう。土光の打ち出した改革路線は合理的かつ筋が通っていたからだ。

 例えば、それまでの“官”は、物価や人件費の上昇に伴い、同じ仕事をするにあたって行政費が一定の率で上昇することを「当然増」と呼び是認してきた。土光はこれに異を唱え、前述のゼロシーリングを提唱。そこにあるのは「民間企業には当然増という経費はない」という、国民にとって当たり前の感覚だった。

 一方で、理想とされる国づくりのために、国民一人一人がなすべきことを率直に説き、その実現に尽力したことも、土光人気を支えていよう。実際に、土光は行革を推進する上で国民運動が必要と考え、本田技研工業の創業者、本田宗一郎などに働きかけ、国民運動のための行革国民会議を発足させるなど、行革のために精力的に行動し続けた。その薫陶を受けた財界人も少なくない。

 土光は晩年、こう述べている。


 「若い人のために、その次の世代のために、こんな年寄りが努力しているんだ。つらいこともあるだろうが、皆さんもそれぞれの立場で、行革を推進し、あるいは監視する運動に加わってもらいたい。お願いしましたよ」


 各省庁の抵抗にあいながらも体を張って行革に挑んだ土光。その本人にこう呼び掛けられて、果たして無関心でいられる人はどれほどいるのだろうか。

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