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行革の獅子と猛烈企業家の顔を併せ持つ男―――土光敏夫【第1回】戦後の敏腕経営者列伝(2/2 ページ)

今から約30年前、土光敏夫という男が行政改革にらつ腕を振るったことを覚えているだろうか。その活躍に、かつて多くの日本人は喝采(かっさい)を送ったものだった。ただし、企業家として知られる土光には、決してありがたくはない異名も数多い。果たして、土光とはどのような人物であったのか――。

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“企業家”土光の本当の姿とは?

 土光は行革とともに、敏腕企業家としても広く知られる存在だ。石川島重工業や東芝の社長として、両社の経営危機を救い“再建屋”として名をはせる一方で、石川島重工業時代には当時第3位の造船メーカー、播磨造船との合併を秘密裏に推し進めることで1960年には石川島播磨重工業(IHI)を誕生させ、大型合併の先駆者としても知られている。

 その働きぶりは猛烈で、「土光タービン」と称されるほどだ。現に、東京石川島造船所(後の石川島重工業)と東芝の合弁会社である石川島芝浦タービンの社長時代には、戦後の混乱期にあって会社を再建すべく、横浜市鶴見の本社工場と長野の松本工場とを夜行列車を使って頻繁に往復した。翌朝到着すると、すぐに仕事に取り掛かっていたとの逸話もある。部下にも猛烈さを求め、東芝の社長就任時に「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。おれはそれ以上に働く」と挨拶した話は有名だ。

 ちなみに土光は、東京高等工業(現在の東京工業大学)機械科を卒業後、東京石川島造船所に入社した数年後には、上司であった取締役の娘と見合い結婚をしている。上役の娘と結婚すれば出世コースはほぼ間違いのないところ。だが、その後も土光は恵まれた条件に甘えることなく、脇目もふらずに働き通した。そうした気性を見抜いた上役の眼力は見事というほかはない。

 企業家としての土光には、「ミスター・ダンピング」、「辻斬り強盗」、「ダボハゼ経営者」など、国民に慕われた土光からは想像もつかない不名誉な異名が少なくない。これに対して土光は「済んだことを、いまさら詮索したって仕方がない」と口癖のように言い、悪評に超然と構える態度を変えなかった。だが、時代が変わることでこれほど評価が変わるものなのか。土光は果たして、どのような人物であったのか。

 本特集では、土光にまつわる書物をひも解きながら、その歩みをたどることで、土光の人となりに迫りたい。たとえ時代が変わっても、その生き方に学ぶべきことはことは決して少なくないはずだ。


 参考文献:

 『評伝 土光敏夫』(榊原博行/著 国際商業出版 1976年/刊)

 『財界総理側近録』(居林次雄/著 新潮社 1993年/刊)

 『土光さんから学んだこと』(本郷孝信/編 青葉出版 1984年/刊)

 『土光敏夫 日本への直言』(東京新聞編集局/編 東京新聞出版局 1989年/刊)


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