話題の真田丸からビジネスのヒントを学ぶ:ITmedia エグゼクティブ オープンセミナーリポート(1/2 ページ)
日本一の兵と呼ばれる真田幸村。壮絶ともいえる真田幸村の49年の人生から、ビジネスに役立つヒントを学ぶ。
歴史作家への第一歩
河合氏が、最初に歴史に興味を持ったのは10歳のとき。裏の畑から縄文土器が出土したことがきっかけだった。河合氏は、「この土器を3000年前の人が作ったと思うと本当に感激した」と当時を振り返る。
しかし、歴史学者になりたかったのではなく、学校の先生になりたいと思っていた。理由は、通っていた中学校が荒れた学校で、当時人気だったテレビドラマ「3年B組金八先生」とダブり、影響されたからである。さらに、金八先生が好きだった坂本龍馬について調べて感動したことで、歴史の教師を目指したのだという。
無事大学を卒業し、教師に採用され、最初に赴任したのが養護学校だった。養護学校では残念ながら日本史の授業がなかったため、歴史への思いを、身近な歴史を研究し雑誌の論文に応募することにそそいでいた。あるとき賞をもらい、そこから"もの書き"人生がはじまった。
「養護学校では、自分自身ほんとうに勉強になったし、いまでも原点だと思い感謝している。もし養護学校に赴任していなければ、歴史作家になっていなかったし、今日この勉強会の場に立つこともなかった。そうした意味でも、人生とは不思議なものだと思う」(河合氏)
教科書で見た聖徳太子は本人なのか?
「真田幸村 家康をもっとも追いつめた男」を書いた背景を河合氏は、次のように語る。
「"真田幸村について書いてほしい"と出版社から依頼されたが、当初は無理だと答えた。真田幸村について史実として分かっていることは、原稿用紙10枚程度であり、それでは本は書けないと思ったからだ。真田幸村は、本人が書いた手紙やもらった手紙、日記、同時代の人の日記や随筆などの"1次史料"がほとんど残っていないのである」(河合氏)。
真田幸村といえば、「真田十勇士」を思い出す人は多いだろう。よく知られているこの話、実際に物語に出てくる同姓同名の家臣が何人かいたことは確かだが、大正時代に完成した作り話である。河合氏は、「歴史には、けっこう後から作られた話が多い。かつて学校で習ったことでも、新たな史料や遺物の発見により変化する」と言う。
「源頼朝や聖徳太子、足利尊氏の肖像は、本人ではない可能性が高く、現在の日本史の教科書には載っていない。日本書紀に憲法17条や遣隋使の派遣など、聖徳太子の業績が書いてあるが、20歳そこそこの若者である太子が本当に政治を主導できたのか怪しい。そのため現在の教科書には、聖徳太子は推古天皇の協力者と記されている」(河合氏)。
ただ、真田幸村の父である真田昌幸の記録、および兄の真田信之の記録はかなり残っている。そこで河合氏は、「真田一族の話でもよければ書いてもいいと出版社に伝えた。大河ドラマで真田丸が盛り上がっていたことも本を書いた理由のひとつ」と話している。
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