ICTでイノベーションをドライブし、元気で活気ある会社を創造する――三越伊勢丹システム・ソリューションズ 箕輪康浩社長:「等身大のCIO」ガートナー 浅田徹の企業訪問記(1/2 ページ)
「お客さまの暮らしを豊かにする、“特別な”百貨店を中核とした小売グループ」を目指す三越伊勢丹グループ。IMSでは、グループ全体の構造改革を、IT分野でリードしていくことを目指している。
新しい時代を生きるお客さまへ、暮らしを豊かにするご提案を行い、日本の誇りとなるよう世界に発信し続ける小売りグループを目指し、デジタルによるビジネスモデル変革(DX)に積極果敢に取り組む三越伊勢丹グループ。顧客のライフスタイルの変化が激しい現在、リアルな店舗だけでなく、多様なチャネルにより、ネットを通じて、いつでも、どこからでも商品情報にアクセスできる顧客接点の実現は、ビジネスの成長に欠かせない重要な取り組みの一つ。その取り組みの中核を担うのが、三越伊勢丹システム・ソリューションズ(IMS)である。
IMSでは、三越伊勢丹のオンラインストアアプリを刷新。お客さまがオンラインチャットで店舗のスタイリストに相談できるサービスや、店頭での混雑を避けるための事前来店予約など、新しい時代の買いものを楽しめるデジタルサービスを拡充している。今後は、百貨店ビジネスで培ったデジタル領域での成功体験や知見、ノウハウを、外販事業に展開していく計画。百貨店の「おもてなし」とデジタルの融合により、最高の顧客体験の提供を目指している。
IMSの代表取締役社長執行役員である箕輪康浩氏に、これまでのキャリアや百貨店におけるDXの推進、IMSの新たなチャレンジなどについて、ガートナージャパン エグゼクティブ プログラム バイスプレジデントの浅田徹氏が話を聞いた。
バイト先のPOSレジがNCR製だったことが就職のきっかけ
――まずは、これまでのキャリアについてうかがえますか。
1988年にPOSシステムのメーカーである日本NCRに新卒で入社しました。まずはプログラマーからスタートし、プロジェクトマネジャーになり、組織の長へと変遷していきました。ちょうどバブル期ということもあり、モノづくりが非常に楽しい時代でした。しかし外資系の企業だったので、組織の長になると、予算や売り上げの管理などマネジメント業務が増え、現場が好きだったので少しワクワク感が減りました。
――日本NCRに入社した理由は。
大学時代は理系だったので、就職するならIT系の会社がいいなと漠然と考えていました。当時、コーヒー店でアルバイトをしていて、バイト先のPOSレジを見るとNCR製でした。そこで、日本NCRについて調べてみたら面白そうな会社だったので、エントリーしてみたら採用になったことが就職のきっかけでした。
――バイト先のレジがNCR製でなかったら違った人生でしたね。IMSには、いつ転職したのでしょう。
日本NCRで、マネジャー以降はワクワク感が減ったと話しましたが、マネジャーになってからもやりがいはありました。例えば、2006年に、伊勢丹の基幹システム構築のプロジェクトマネジャーを担当しました。当時、非常に苦労したプロジェクトの一つでしたが、現在もその基幹システムの一部は動いています。その縁もあり、2012年にIMSに転職しました。
転職してすぐに、一世代前のECシステム構築を担当したのですが、これがまた大変なプロジェクトでした。当初は、パッケージを利用しようと思ったのですが、なかなかうまくいかず、結局はスクラッチ開発で稼働させることができました。工数やコストの面でも、かなり苦労したプロジェクトでしたが、この仕組みは現在のECサイトのベースとして、今も動いています。
NCRでの開発の喜び、浪人時代などの経験が現在の糧に
――これまでのキャリアで、最も記憶に残ること、影響されたことについてお聞きしたいのですが。
日本NCRでの開発の喜び、浪人時代の出会いなど、これまでの経験が、それぞれ糧になり、積み上げてきた結果として今があります。いろいろな経験をすることが、自分自身を磨くことになります。全てがつながっていると思うので、若いエンジニアには、いろいろなものに興味を持ち、さまざまな経験をして、仕事だけでなく、変化を敏感に感じられる人になってほしいと思っています。
――日本NCRでの開発の喜びについて伺えますか。
1989年に消費税の導入という大きな出来事がありましたが、1988年に入社して、研修を受けて、消費税対応のプロジェクトに配属されました。
そのとき、百貨店のPOSシステムの消費税対応チームに入り、いくつかのプログラムを作ったのですが、消費税が導入された初日に当時の総理大臣が商業施設視察で、三越日本橋本店を訪れネクタイを購入されました。消費税の印刷されたレシートがテレビに映しだされたのを見たときに、入社1年目でも日本のインフラを作っている、活躍できるという喜びを感じました。
その後、いろいろな仕事を任せてもらい、自由にやらせてもらえたことが、どんどん新しい技術を学ぶ、よりよいものを作っていく、感謝されるものを作るという、現在の考え方のベースになり、マネジメントに生きています。もちろん、上司に恵まれたこともあります。
――今の生き方に大きな影響を与えている、浪人時代の話をお聞きできますか。
新潟県栃尾市(2006年に長岡市に編入)という、当時人口3万人程度の町で生まれ、高等学校まではそこで暮らしていました。大学は、東京に行きたかったので、東京の大学を受験しましたが全て不合格。田舎の高校では、勉強しなくても成績はけっこう上位だったので受かるだろうという軽い気持ちでしたが、まったく歯が立ちませんでした。
仕方ないので、東京で浪人させてほしいと両親に頼んだところ、東京で1人暮らしをしている伯父さんに頼んでくれ、そこで1年頑張るのであれば、東京に行ってもいいと言われました。東京に行ってみると、伯父さんの部屋は、4畳半1間と1畳のキッチン、トイレは共同で風呂はなしというもの。もちろん、冷暖房なし。田舎生まれで、家は大きかったので、ここで1年、伯父さんと2人暮らしかとため息が出ました(笑い)。
さらに週末には、伯父さんの友人もやってきて、朝まで酒盛り。飲み方も豪快で、そこで人との関係作りを学びました。大学に入学して、しばらくはそこにいたのですが、大学に行かず、遊びまわっていたのを注意されたのでけんかになり、出ていくことになりました。
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