「ネット法規制」と惨劇の間で――情報社会における人間形成:新世紀情報社会の春秋(2/2 ページ)
インターネットを舞台に発生しているといわれる問題の本質は、インターネットそのものにあるのではなく、それを使う現代の人間や社会にある。
唐突に現れる「みんな死んでしまえ」
法案が可決・成立したわずか4日後の6月15日の午後0時30分ころ、東京秋葉原の電気店街で25歳の男性による無差別殺人事件が発生した。自動車の無謀運転によるひき逃げと、殺傷能力の高いナイフによる無差別的な連続加害行為により、7名の命が奪われ10名が負傷する大惨事となった。
その後の時間の経過とともに、加害者の人物像や生い立ち、そして犯行当日までのいろいろな環境や意識の変化、具体的な言動などの実体がある程度明らかになりつつある。事件の衝撃が大きいだけに、その熱は加害者そのものの追求にとどまらず、犯行に至らしめた原因を、さながら真犯人を探すかのように彼の周辺に求めている。そこではナイフや契約雇用の問題、さらにはアニメやゲームといった、もはや槍玉の常連となった観のある事象が挙げられるばかりだ。最初の凶器となった自動車や家庭や学校での教育について問題視する向きは少ない。
個人的には、今回の事件は情報社会における人格形成や教育の問題に帰するところが大きいと考える。少しだけ書くなら、加害者が携帯電話の掲示板につづったという一連の内容で、いろいろな不満や絶望をつづった後に唐突に現れる「みんな死んでしまえ」という一文、これを重く受けとめる必要があると思う。当然の展開であるように伝えられている、前段からこの文に至る距離と、さらにそこから具体的な行動に至る距離は、本来同じくらい遠く深いもののはずなのだが。そこを単純に飛躍してしまうところに、現代の人間形成に関する非常に本質的な問題があると思う。
インターネットなかりせば
高校教育において「情報」教科の導入が始まってまもなく10年が経過しようとしている。教育の現場ではこの科目を単なるITリテラシー教育として片付け、日々進化する技術とのギャップに途方に暮れているのではないだろうか。一方で、本来必要な情報社会における情報の選択や受容、そして主体的な情報表現に関する倫理観や能力の形成という視点での議論には何ら進展がない。筆者が今回の事件で最も重要と感じる問題はそこにある。もちろん「フタをする」ことは、急場しのぎではあってもその本質ではない。
ご多分にもれず、携帯電話やインターネットを事件の一因としてとらえる向きも相変わらず存在する。先日もある新聞の夕刊に、インターネットなかりせばこの事件は発生しなかったかもしれない、という趣旨の小さなコラムを目にした。新聞というメディアに身を置く人間でさえ、情報社会に対する認識はそんな程度でしかないというのは何とも残念である。
プロフィール
なりかわ・やすのり 1964年和歌山県生まれ。88年NEC入社。経営企画部門を中心にさまざまな業務に従事し、2004年より現職。デバイスからソフトウェア、サービスに至る幅広いIT市場動向の分析を手掛けている。趣味は音楽、インターネット、散歩。
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