“紳士”東芝を変えたアメとムチ―――土光敏夫【第3回】:戦後の敏腕経営者列伝(2/2 ページ)
石川島播磨重工の会長であった土光敏夫は、尊敬する東芝会長、石坂泰三のたっての頼みで東芝の再建に乗り出す。そこでの土光の手法は石川島時代と同じく、アメとムチを交えたものだった。そうした土光流の改革は東芝に確かな変化をもたらす――。
自ら足を運び、労組と徹底議論
一方の労使協議では、土光は石川島時代と同様、日本ならではのウェットさを押し出した。当時、東芝では労働組合との協議は本社で行われていたが、土光は社長に就任して2〜3日後、突然、組合三役に会いにいくために、労務部長と2人だけで川崎労連のあった工場に自ら出向く。相手を呼び出せばよいとの周囲の声にはこう応えた。
「いや、こちらから出かける。わしのほうが後からやってきたのだから」
過去、新任社長が組合事務所を訪れた例はなく、突然の土光の来訪に組合側は大いに驚いたことであろう。しかも、土光は初顔合わせの席で酒を買ってくるよう命じ、夜が更けるまで飲み明かしたというのである。
また、労使協議会に時間制限がある点を組合側が不満に感じていることを知ると、「君たちが一生懸命会社のことを考え、話し合うというなら、時間無制限でやろう」と、大量に駅弁を買ってこさせ、徹底的に議論を重ねた。こうして、工場の労働者からは“オヤジ”と呼ばれるようになり、労使間の信頼関係は強固なものとなっていったのだが、土光は労使関係についてこう繰り返し述べている。
「ボクは従業員を、労働力とはいわない。人的資源だと考えている。だから、組合も強くなりなさい、経営者も強くいこう、という考え方だ」
経営の“神様”も警戒した土光の社長就任
さて、後に業界を上げての合理化の原動力として評価は高まったものの、石川島時代の土光は他社よりも圧倒的な安値で受注を繰り返すことで、重機械工業界の暴れん坊と目されていた。そんな土光が東芝の社長に就任したことを真っ先に警戒したのは、経営の神様と称される松下幸之助であったという。土光の猛烈主義によって“紳士”と呼ばれた東芝が、遮二無二販売攻勢をかけてくることを恐れたが故だ。
この心配は杞憂に終わる。土光は大衆商品の家電の販売には精通しておらず、この分野は副社長以下に任されたからだ。だが、重電機や産業用エレクトロニクスなどの分野では、土光は依然として底力を発揮した。その方法はときに強引ともいえ、例えばある電力会社への原子力発電プラントの売り込みに際しては、何と経団連会長であった石川を担ぎ出したほどだ。
とはいえ、土光は裏金といった“裏技”は決して用いることがなかった。土光の次のような信念は、時代を先取りしていたのか、それとも当然と言えるものなのか。
「ワシは自由主義の信奉者だ。商売は、どんなことをしてでも大いに自由にやるべきだ。ただし、ルール(法律や商慣習)は絶対に守らにゃいかん。モラル(商道徳)を無視してはいかん」
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