研修医初日の鮮烈な体験:小松裕の「スポーツドクター奮闘記」(2/2 ページ)
春うららなこの季節になると、研修医としてスタートを切った新人時代を思い出します。研修初日に経験した忘れ難い出来事のことも…。
「静脈に針が入らない…!」
研修初日、何とか無事に初めての点滴入れを終えて、ナースステーションでカルテを書いていたわたしに、あるベテラン看護師さんが「先生、PSP試験にいきますよ」と声を掛けました。
PSP試験というのは昔行われていた腎臓の検査で、PSP試薬を静脈に注射し、しばらく時間をおいて尿を調べるという検査です。採血や点滴針留置に比べてはるかにテクニックが必要で、きちんと針先を固定して静脈内に薬剤を注入しなくてはなりません。
2人でベッドのわきへ行き、患者さんの腕をまくり静脈に針を刺しました。ところが、静脈の中に針がうまく入ったかどうか分かりません。PSP試薬というのは赤色をしているため、目で見ても赤い血液の逆流が分かりませんでした。今であれば、静脈を穿刺した感じが指の感覚で分かりますが、研修初日のわたしには到底不可能でした。
「静脈の中に針が入っていない」と思い、針を抜きました。すると今度は注射器の内筒が勝手に滑り始めました。当時はガラス管シリンジでしたから、シリンジを水平に保持していないと内筒が動いてしまうのでした。何とかシリンジを水平にして再び穿刺、でもうまくいかない。徐々に冷静さを失っていきました。
次の瞬間、看護師さんの手がシリンジに近づき、患者さんに分からないように身体でシリンジを隠し、あっという間に無言で静脈に針を入れてくれたのでした。患者さんはまったく気が付いていません。見事な早業。わたしは赤い試薬を注入し終えると、ナースステーションに戻り、看護師さんにお礼を言いました。彼女は何も言わずに、にこっと微笑んで、ほかの病室に消えていきました。
「少しは勉強して国家試験に合格して医者になったけれど、注射すらまともにできない」と痛感しました。同時に、何もできない研修医を罵倒することなく無言で教育するとともに、患者さんに苦痛を与えず注射する技術を持つ看護師さんがいることに度肝を抜かれました。「患者さんのためにも、この看護師さんのためにも注射をうまくならねば」と強く心に誓いました。わたしが経験した中で、最も心に残る、効果的な指導でした。その晩から、注射を上達させることが目標になりました。毎晩、血管に見立てたゴムの駆血帯に針を刺して、内筒を押しても針先が動かないように練習しました。
教える側と教わる側の思い
今から考えると、この忘れられない思い出には「教育」に関する重要なポイントがいくつも隠されている気がします。これからしっかり勉強してまともな医者になろうとしていたわたしにとって、教える側と教わる側の思いがぴたりと合致しました。指導する立場からすると、いかにしてその気にさせるかが大事なことですが、教わる側も教える人間の気持ちを汲み取る努力が必要です。あの看護師さんは無言で「もっと勉強して立派な医者になってね」とエールを送ってくれたのが分かりました。
24年の時を経て、わたしも教わる側から教える立場に変わりました。そして、いつもこの季節になると、「あの研修初日の看護師さんのレベルにはまだまだ達していないなあ」と感じるのでした。
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著者プロフィール
小松裕(こまつ ゆたか)
国立スポーツ科学センター医学研究部 副主任研究員、医学博士
1961年長野県生まれ。1986年に信州大学医学部卒業後、日本赤十字社医療センター内科研修医、東京大学第二内科医員、東京大学消化器内科 文部科学教官助手などを経て、2005年から現職。専門分野はスポーツ医学、アンチ・ドーピング、スポーツ行政。
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