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【第12回】一等級の働きをした「三等重役」――住友生命の事例ミドルが経営を変える(2/2 ページ)

戦後間もなくGHQによって断行された公職追放により、多くの日本企業は経営トップを失った。その穴埋め役になったのが「三等重役」と呼ばれた若き実業家たちだった。

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一社員が重役を選んだ住友生命

 「三等重役」の選ばれ方はさまざまだった。例えば、上述した日立の倉田の場合は、前任者の小平の指名だった。他方では、従業員が事実上、社長をはじめとする取締役を選ぶ形をとった企業もあった。住友本社から切り離された住友生命保険もその一社である。

 GHQの指令に基づき終戦時に同社(当時は国民生命保険相互会社と名乗っていた)の常務だった者はパージされた。同社の社史に「新会社役員は、……、その人選に当たっては全職員のコンセンサスを得るために組合の意見も聴取し……」*3とあるように、パージ後の役員人事は従業員の意向が色濃く反映されたものだった。

 新社長に就任したのは44歳の芦田泰三業務部長だった。パージ後も芦田の先輩に当たる取締役が一人残っていたが、この先輩を飛び越す形で芦田が新社長に選ばれた。芦田の後任となった新井正明(元・同社社長/名誉会長)によれば、芦田が選ばれたのは「芦田さんではなくてはと、社内の世論が一致したから」*4とされており、当時、結成間際だった従業員組合の意見も組み入れられた。社長以外の役員については、組合との交渉、団交で決定された。新井はその様子を次のように述懐している。


「いまでは考えられないことだが、社長以外の重役は組合との交渉で決めることになった。重役候補と組合執行部が向かい合って団交するのである。会社側の候補者リストに組合が異論を出していく。『彼は重役にはふさわしくない』『そんなことはない。これこれの実績がある』という具合にかなり激しい議論が長時間交わされる。組合は最初から徹夜の団交を見込んで夜食を用意していたが、会社側はそこまで考えず、飲まず食わずで頑張った」*5

三等車に乗る一等重役

 芦田を源氏は次のように称賛していたとされる。芦田が1979年に死去した際、社葬にて友人代表として弔辞を読んだ堀田庄三住友銀行名誉会長(当時)の文句である。


「あなたは社長就任後も三等車に乗って全国各地の支社を巡り社員の激励に努められた。こうしたあなたの奮闘ぶりを、かの源氏鶏太氏は『三等車に乗る一等重役』と称賛したそうであります」


 三等重役として社長に選ばれ、実際に「三等車」に乗っていた芦田であったが、経営者としては「一等」の働きをした。就任時に生保20社中11位でしかなかった同社を、1956年の保険料引き下げをはじめ「業界の暴れん坊」という呼称にふさわしく積極果敢な取り組みで大手にまで押し上げたのは、芦田の経営手腕にあった。

 このように住友生命では組合の意見が取り入れられる形で経営者の選任が行われた。さらに興味深いものとして、従業員による選挙によって経営者の選任が行われた例も存在する。安田生命保険(現・明治安田生命保険)、あるいは大成建設の事例である。これについては次回詳しく見ていくことにする。


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プロフィール

吉村典久(よしむら のりひさ)

和歌山大学経済学部教授

1968年奈良県生まれ。学習院大学経済学部卒。神戸大学大学院経営学研究科修士課程修了。03年から04年Cass Business School, City University London客員研究員。博士(経営学)。現在、和歌山大学経済学部教授。専攻は経営戦略論、企業統治論。著作に『部長の経営学』(ちくま新書)、『日本の企業統治−神話と実態』(NTT出版)、『日本的経営の変革―持続する強みと問題点』(監訳、有斐閣)、「発言メカニズムをつうじた経営者への牽制」(同論文にて2000年、若手研究者向け経営倫理に関する懸賞論文・奨励賞受賞、日本経営倫理学会主催)など。


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