フィジカルAI実用化の壁をどう越えるか──経産省・PFNらが語る、"5~8桁足りない"学習データの現在地
テキストや画像を生成するLLM(大規模言語モデル)の発展が目覚ましいなか、AI業界の次の成長領域として世界的な注目を集めているのが、現実世界で身体を持って稼働する「フィジカルAI」である。しかし、インターネット上の膨大なテキストを活用できたLLMとは異なり、フィジカルAIの社会実装において最大にして最難関の壁となっているのが、学習データの圧倒的不足だ。
2026年9月15日、セルリアンタワー東急ホテルにて開催された「第4回GMO大会議・秋・フィジカルAI 2026」のパネルディスカッション「フィジカルAIを動かす学習データの作り方──現場で集めるか、合成でつくるか」では、政策・基盤モデル・データ集積・現場実装の第一人者が結集。「必要データに対して5桁~8桁不足している」という現場の現実に対し、実機データと合成データの役割分担、世界モデルの可能性、さらには企業間の協調領域の切り分けと経済産業省の「母艦モデル」構想まで、日本のフィジカルAI産業が取るべきデータ戦略について議論された。
パネルディスカッション登壇者
- 経済産業省 大臣官房審議官 奥家 敏和 氏
- Preferred Networks 共同創業者 代表取締役社長 岡野原 大輔 氏
- 一般社団法人AIロボット協会 CTO 松嶋 達也 氏
- テレイグジスタンス 共同創業者兼CTO 佐野元紀 氏
- GMOインターネットグループ サイバー防衛事業推進本部「6」本部長 元陸上自衛隊 陸将 廣惠 次郎 氏(モデレーター)
LLMとは異なる、圧倒的なデータ不足という現実
廣惠氏は冒頭、フィジカルAI開発に特有の課題を提示した。インターネット上に無数に存在するテキストを学習して性能を高めてきたLLMとは異なり、身体を持ったフィジカルAIのためのデータは、現時点で世の中にほとんど存在しない。これから大量に必要になるにもかかわらず、である。その規模感について廣惠氏は「感覚的には5桁、6桁、数え方によっては7桁、8桁足りないかもしれない」と述べた。
AIが物理世界でタスクをこなすには、「どのような視覚情報に対して、どの関節を、どう動かしたか」といった物理的・身体的なデータが欠かせない。問題は、こうした膨大で取得の難しい学習データを、誰がどのように用意するかだ。
実際の現場で収集する方法もあれば、コンピュータ上で「合成データ」を生成する方法もある。ただし、廣惠氏は「合成データでいける、とはならない」と指摘し、両者の関係を軸に議論を進めた。
実機データを軸に進む、フィジカルAIの学習
現在、フィジカルAIの学習データはどう集められているのか。コンビニエンスストアや物流の現場で、遠隔操作と自動制御を組み合わせたロボティクスソリューションを展開するテレイグジスタンスの共同創業者兼CTO 佐野元紀氏が現場の実態を語った。
「我々が今最も重要だと考えているのは、ロボットを実際に操作したデータです。人間が何を見て、ロボットの腕の関節をどういう角度でどう操作したか。こうした直接的な関節の動きを、まずはデータとして集めています」(佐野氏)
コストは高いものの、ロボットの汎化には実機データが最も有効だと佐野氏は見る。ロボットの手先にあたるグリッパーだけを人間が操作する方式や、人間の動きをキャプチャする方式もあるが、「一番価値が高いのは、実際のロボットそのものをダイレクトに動かしたデータだ」と強調した。
こうしたデータを集約する立場にあるのが、汎用ロボットの社会実装に向けて基盤モデルやソフトウェアの公開を進める一般社団法人AIロボット協会(AIRoA)だ。同協会CTOで東京大学特任助教も務める松嶋達也氏は、コストと学習効果が異なる複数のデータを、どう組み合わせているか解説した。
「実ロボットの遠隔操作データは学習に使える情報として最も強力ですが、収集コストが高いのがネックです。そのため我々は、手に持って手先の動きだけを集める『ハンドヘルド型デバイス』のデータ、人間にセンサーを付けて取得する一人称視点の『エゴセントリックデータ』、そしてシミュレーションデータなどをミックスして集めています」(松嶋氏)
一般に、学習効果の高いデータほど収集コストも高くなる。松嶋氏は「ミックスの比率や、それぞれどれだけの収集時間が必要かを推定しているのが現在地だ」と語り、遠隔操作では月あたり数万時間規模でデータを収集するペースで進めているとした。
必要なデータ量について、松嶋氏は「あくまで個人的な感覚」と前置きしたうえで、事前学習には実ロボットのデータが数十万時間規模必要になるとの見方を示した。さらに、ハンドヘルドデータはその10倍、エゴセントリックデータは100倍ほどを組み合わせ、最適な比率を探っていくという。ただし、必要量の目安はまだ定まっていない。「世界中の誰もがまだ推定を試みている段階」と松嶋氏は話す。
なお、これらのデータの管理について政策側はどう見ているのか。経済産業省 大臣官房審議官の奥家敏和氏は、Hugging Faceなどで公開済みのデータはすでに活用し、ロボットで集めたデータやエゴセントリックデータは可能な限りAIRoAに集約する方針だと説明した。
リアルデータと合成データ、そして「世界モデル」の役割
学習データの収集で近年期待を集めるのが、シミュレーターなどを用いた合成データの活用だ。しかし、Preferred Networks(PFN)共同創業者 代表取締役社長の岡野原大輔氏は、物理空間における合成データの難しさを指摘する。
「画像や映像、音声の分野では合成技術が整ってきており、実データに多様性を持たせるデータ拡張として使われています。ただ、多くは一からデータを作るのではなく、既存の実データの環境条件を変える使い方です」(岡野原氏)
一方、実データだけでは、多様性を十分に確保しにくい。フィジカルAIでは、ロボットの身体性・環境・タスクがどうしても限られてしまう。ある条件で取得したデータを別条件のものに作り替えれば、一定の精度低下を許容しながら条件を変えることで、データの多様性を広げられる。だが領域によって成熟度は大きく異なる、と岡野原氏は続けた。
「たとえば触覚や、未知の物理現象に関わるセンサーデータは、そもそもどんな物理現象としてシミュレーションできるのか、実データから汎化できるのかが難しい。ここはまだ手探りで、実データを着実に集め、理論研究も並行して進めている段階です」(岡野原氏)
松嶋氏もこれに同意する。ドローンの飛行制御や、4脚・2脚ロボットの姿勢制御のように、シミュレーション環境で学習し、その成果を現実世界へ移行するSim-to-Realの例はすでに多い。だが、AIRoAが求めているのは、VLA(Vision-Language-Action:視覚情報と言語指示を理解し、行動につなげるロボット向けモデル)の中でも、物をつかんだり操作したりするマニピュレーションを担うモデルだという。
「3D空間上に無数の物体アセットや、ヒンジの付いた電子レンジのような構造を再現するより、IKEAに行って実物を買ってきたほうが、多様性を担保するという点では早いといえます」(松嶋氏)
AIRoAでは、あくまで実環境で収集したデータをベースとしながら、シミュレーション上で物体の配置や色などを変化させ、データを拡張する用途で合成データを活用する方針だという。
一方、佐野氏は合成データとは少し異なる角度から、「世界モデル(World Model)」の可能性に言及した。世界モデルとは、物理世界の状態や変化をモデル化し、ある行動をとったときに、その後の世界がどう変化するかを予測する仕組みを指す。
「世界モデルには非常に可能性を感じています。生成した映像そのものを学習に使うというより、『こういう行動をとったら世界はこう変化する』と予測できる仕組み自体が、基盤モデルの動作生成に役立つのではないか。また、我々が作ったモデルを実機で検証するのはコストが高いのですが、先に世界モデルの中で動かして反応を見て、確からしさを確認してから実機に渡す、といった使い方も考えられます」(佐野氏)
では、リアルデータと合成データは、最終的にどのように使い分けていくのか。廣惠氏の問いに、松嶋氏は「組み合わせになると思います」と答えた。
企業がデータを共有するインセンティブはどこにある? 経産省が描く「母艦モデル」構想
ディスカッションの中盤、廣惠氏はデータ共有のインセンティブについて問いを投げかけた。事業会社にとって、データは競争力の源泉でもある。それをAIRoAのような団体に提供し、共有財として扱うメリットはどこにあるのか。
佐野氏は、事業会社の立場からデータ共有の考え方を説明した。
「もちろん、自社で集めたデータは自社で管理したいという思いがあります。ただ、基盤モデルの開発は、1社だけで進め切れる段階ではありません。たとえば、特定のコンビニで求められる特殊な動きは自社の強みとして持つ。一方で、把持や移動といった基本動作の最小単位である『アクションプリミティブ』は業界横断で共有し、基盤モデル全体の性能を高めていく。そうすることで、結果的に自社にもメリットが返ってくると考えています」(佐野氏)
松嶋氏も、協調領域と競争領域の切り分けを強調した。業界全体で使えるデータや基盤モデルは各社で協力して整備し、その先の実運用や個別領域への最適化は、それぞれの企業が担う。「実際、そういう進め方をしています」と松嶋氏は語った。
経済産業省も、こうした官民連携を政策面から後押ししている。奥家氏は、フィジカルAI時代を見据えた国のデータ戦略について説明した。
経産省では、ロボット関連データだけでなく、製造現場などに蓄積された非構造化データをAIが学習できる状態に整える「AI-Ready化」を進めている。さらに、フロンティア事業を通じてPFNらと連携し、大規模なフィジカルAIに対応する基盤モデル、奥家氏の言う「母艦モデル」の開発にも取り組んでいるという。
「この2年弱で、日本企業の間でもデータ整備に向けた動きが一気に進みました。フィジカルAIでの活用を見据え、有力メーカーがデータセット作りに乗り出し始めています」(奥家氏)
奥家氏は、共有できるデータとできないデータの線引きを、溶接を例に説明した。潜水艦の溶接のように機密性の高い作業や、そのための特殊な訓練データは外部に出せない。一方で、一般的な溶接の基本動作をAIが学んでいなければ、特殊な溶接を追加学習することも難しい。
「だからこそ、基盤モデルを支える基礎的なデータであれば、各社で協力して出し合おうという考え方が広がっています。以前に比べて、企業間の連携やデータ共有への理解も進んできました」と奥家氏は話す。中堅企業が独自にデータセットを作る動きもあり、実際に活用法を相談に訪れる企業もあるという。
フィジカルAIの社会実装に向けた次なる一手は
セッションの最後には、フィジカルAIの普及に向けて、今後どのように取り組むべきかが各登壇者から語られた。
佐野氏は、データとAIの関係を「ニワトリと卵」にたとえる。
「やり続けるしかないと思います。データがなければAIは賢くならず、賢いAIがなければデータも集まらないというニワトリと卵の問題はありますが、それでも前に進むしかありません」(佐野氏)
松嶋氏は、まず利用場面を具体的に思い描くことの重要性を挙げた。
「汎用ロボットが自分たちの職場に来たらどう使いたいのか、何ができそうなのか。そこを想像し、必要なデータに落とし込んでいくことが重要です」(松嶋氏)
岡野原氏も、社会実装の事例を増やすことがデータ収集につながると指摘する。
「少しでもいいので、『フィジカルAIはこう使います』という社会実装の事例を作ることが大切です。具体的な利用イメージが見えてくれば、学習データを集めようという動きも生まれてくると思います」(岡野原氏)
最後に奥家氏が呼びかけたのは、企業が現在持っているデータを簡単に捨てないことだった。
「多くの企業が、データを保存するストレージのコストに耐えきれず、価値があるかもしれないデータを諦めて捨ててしまっています。もし『このデータはどう使えるか分からない』と迷ったときは、周囲の専門家や我々のような仲間に聞いてみてほしい。自分たちでは気づかなかった価値が見えてくるはずです。ストレージの問題で死蔵されたり捨てられたりしている"もったいないデータ"は山ほどあります」(奥家氏)
フィジカルAIの学習データは、リアルか合成かの二者択一ではない。収集コストや学習効果を踏まえながら、実データ、合成データ、世界モデルなどをどう組み合わせるかが焦点となる。同時に、企業が個別に持つデータのうち、何を共有し、何を競争力として残すのか。その線引きも、今後のフィジカルAI開発を左右しそうだ。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
この記事の著者
関連記事
ITmedia エグゼクティブのご案内
「ITmedia エグゼクティブは、上場企業および上場相当企業の課長職以上を対象とした無料の会員制サービスを中心に、経営者やリーダー層向けにさまざまな情報を発信しています。入会いただくとメールマガジンの購読、経営に役立つ旬なテーマで開催しているセミナー、勉強会にも参加いただけます。 勉強会のスケジュールはこちら
ぜひこの機会にお申し込みください。
入会希望の方は必要事項を記入して申請ください。審査のうえ登録させていただきます。
- 入会条件:
- 上場企業および上場相当企業の課長職以上
※入会は無料です
エグゼクティブコンテンツ
SpecialPR
アクセスランキング
-
1
「都市鉱山」でパソコンも対象に 東京都が小型電子機器内のレアアースなどの回収を強化
-
2
「大企業は一朝一夕には変わらない」 NTTデータ冨安寛氏がAI時代に重視する原理原則
-
3
眠れない日こそ活動量を増やそう。認知行動療法で自分を変える、一生モノの思考術とは?
-
4
「世界のベストバー50 2026」に東京のバー2軒がランクイン
-
5
予算がついても、製品を入れても止まる――ゼロトラストを止めている「組織摩擦」の正体
-
6
「漏洩連絡が来た…」自分の個人情報が流出したら? 二次被害を防ぐ、対処法と日頃の備え
-
7
富士フイルムビジネスイノベーション 初のAI採用、新世代複合機を発売へ 「情報プラットフォーム」に
-
8
グーグル、AI生成コンテンツの「透かし」検出ツールを一般公開 画像、動画などで識別
-
9
大阪ガス、AI開発基盤の内製で期間を最大6割削減 コード生成の先にある壁とは
-
10
「50 TOP PIZZA WORLD 2026」に東京のピッツェリア2軒がランクイン
ITmedia エグゼクティブ SNS
インフォメーション
注目情報をチェック
ITmediaエグゼクティブをフォロー