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小沢一郎裁判の奇妙さ藤田正美の「まるごとオブザーバー」(2/2 ページ)

この裁判の冒頭、小沢被告は、国家権力が小沢一郎個人を標的にした不当なものであると発言して、裁判官の「見識のある」判断を求めた。

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 もし国家権力がその行動を制約されずに好き放題始めれば、個人はまったく無力であるということの典型例がここにある。このグアンタナモ基地の例は極端な例ではあるが、国家権力による人権侵害は今でもいろいろなところにある。カダフィ大佐のリビア、シリア、イスラエル占領下のガザ、中国、北朝鮮、例を挙げればきりがない。

 そう考えてくると、国家権力が個人を訴追するときには、厳しい枠をはめておかなければならない。訴追そのものがすでに個人の権利を制約するものだし、結果的に無罪になっても「訴追された」という事実そのものが消えるわけでも、裁判に費やされた時間が取り戻せるわけでもない。「無罪」は「真っ白」と同義ではないとしても同じことだと思う。

 その観点からすれば、国家権力(すなわち検察)が起訴を躊躇した場合に、「国民の責任において」黒白をつけるという考え方はおかしなものだと言わざるをえない。人権を守るためにつけた権力の首輪を、国民の責任において外すと言っているようなものだからだ。たとえ、どれほど小沢一郎氏が政治資金において不明朗なカネを受け取っているように思えても、それを起訴するためには相当の「証拠」がなければならない。捜査の手続きが厳しく決められているのも、最近のいわゆる取り調べの可視化という議論も、すべて国家権力から人権を守るためのものだ。

 それなのに、この小沢裁判における強制起訴は、国家権力ができないことを国民の名においてやろうとする。つまり国民が市民の権利を蹂躙することを自分たちで認めるような話なのだと思う。原理原則を無視したり、軽視したりすれば、やがてそのツケが自分たちに回ってくる。そのことに気がついていないとすれば、危ういのは小沢一郎の政治生命だけではなく、日本の民主主義の将来なのかもしれない。

著者プロフィール

藤田正美(ふじた まさよし)

『ニューズウィーク日本版』元編集長。1948年東京生まれ。東京大学経済学部卒業後、『週刊東洋経済』の記者・編集者として14年間の経験を積む。85年に「よりグローバルな視点」を求めて『ニューズウィーク日本版』創刊プロジェクトに参加。1994年〜2000年同誌編集長。2001年〜2004年3月同誌編集主幹。インターネットを中心にコラムを執筆するほか、テレビにコメンテータとして出演。2004年4月からはフリーランスとして現在に至る。


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