情報の差が国力の差:藤田正美の「まるごとオブザーバー」(2/2 ページ)
記録がなければ、過去の出来事から学ぶことができない。だから記録をし、残しておく。それは個人でも組織でも同じことだ。まして国ならばなおさらである。
議事録から起こったことを学ぶ
記録がなければ、過去の出来事から学ぶことができない。だから記録をし、残しておく。それは個人でも組織でも同じことだ。まして国ならばなおさらである。なぜなら国が過去の出来事から学ばない場合、その災厄は国民すべてに及ぶ。あまりにも多くの人々が政府や指導者の「無知」によって必要のない不幸を味わうことになる。
その意味では、議事録というものは誰が正しかったのか間違っていたのかを追及するものではない。ましてそのときに正しいと思った結論でも何年も経ったら間違っているということもありうる。どのような議論を経てどのような判断がなされ、そしてどのような結論が出されたのか。後の人間がそこから学べることがあるのかどうか、それが議事録の意味である。その意味では、後から資料を集めて議事録をつくることの意味はないといっても過言ではない。すでに過去となったときの記録を再構築するということは、現在から照らせばおかしな議論は省かれてしまう可能性が大きいからだ。
政府がつくるといっている議事録が果たしてどの程度のものになるのか。それを見れば、情報やその役割に対する政府の姿勢を垣間見ることができるだろう。あまりにもつじつまの合った記録になっていれば、それは都合の悪いところを省いたということに他ならない。記録を取ることを忘れるほどの緊急事態で、冷静に理路整然とした議論が行われることなどありえない。菅首相は怒鳴り散らしていたに違いないし、保安院や東電はしどろもどろになっていたに違いない。もちろん首相がおかしなことを口走ったこともあっただろう。それも含めて記録なのだということを、いったい政府はどこまで認識しているだろうか。
こういった記録が問題になるとき、とかくわれわれは「誰が間違ったのか」を追及することに熱心になりすぎるかもしれない。人間はとかく間違うものであり、大きな組織でもそれは同じことだ。大事なことは同じ過ちは繰り返さないようにする(それでも同じ間違いを犯すものである)ということである。だから間違った経緯こそが重要なのであって、犯人探しが重要なのではない。
今回の教訓の一つは明らかだ。首相官邸のすべての部屋(もちろん首相執務室)に、自動録音装置を設置することが必要だということである。もちろん、首相や官房長官、官邸スタッフのメールや電話、携帯電話も同様である。そういった記録を整理して残しておくことこそ、将来につながる。
こうした考え方においてアメリカは紛れもなく先進国である。そして一度は肩を並べたかに見えた彼我の力は、今や比べようもなくなってしまった。そのことの根本的な原因の一つは、この公式記録がないという政府の怠慢にあったことを忘れてはならない。
著者プロフィール
藤田正美(ふじた まさよし)
『ニューズウィーク日本版』元編集長。1948年東京生まれ。東京大学経済学部卒業後、『週刊東洋経済』の記者・編集者として14年間の経験を積む。85年に「よりグローバルな視点」を求めて『ニューズウィーク日本版』創刊プロジェクトに参加。1994年〜2000年同誌編集長。2001年〜2004年3月同誌編集主幹。インターネットを中心にコラムを執筆するほか、テレビにコメンテータとして出演。2004年4月からはフリーランスとして現在に至る。
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