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シナリオ不在が日本の病根藤田正美の「まるごとオブザーバー」(2/2 ページ)

シナリオを描けなければさまざまな変化に対応できない。原発事故はそのことをわれわれに教えてくれた。シナリオを描くのに必要なのは、常識にとらわれない発想だ。

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シナリオづくりで何が重要か

 しかしここで考慮されていないシナリオは、それでも事故が拡大し放射性物質が漏れ出るようなことになったときにはどうするのか、ということである。よく言われているように福島第一原発で事故処理に当たる人々の拠点となった重要免震棟はまだ設置されていないし、原子炉の圧力が高まって危険なときに内部のガスを抜くベントに放射性物質の放出を抑制するフィルターもまだ設けられていない。さらに住民を避難させるときにどこにどのように避難させるのかという問題も、今までのままである(今回の福島の例で言えば、30キロ圏の避難計画が必要だということになるが、そんな計画を出せば大騒ぎになることは目に見えている)。

 シナリオづくりで重要なことは、「そんなことはありえない」という言葉で簡単にくくらないことだと思う。こういう場で議論するのは「確率」を論じることではなく、どのような場合を想定することができるかという一種の知的ゲームと考えたほうがいい。テロや飛行機事故、隕石といった問題も同様だ。

 しかし例えば原子力安全委員会の斑目委員長は、この事故の前後で2回も「そんなことはありえない」と明言した。一つは、事故前に全電源喪失の可能性について、もう一つは事故後に水素爆発の可能性について、である。その二つがあったために、斑目委員長は3つめの過ちを犯した。炉を冷却するために海水を注入する話が出たとき、「原子力に詳しい」菅首相が再臨界の可能性を問うた。このときに斑目委員長は「可能性はゼロではない」と答え(科学者的には正しい答えだと思うが)、海水注入に関して首相の了解を得るのに時間がかかっている。

 シナリオを描けなければ、さまざまな変化に対応できない。原発事故はそのことを如実にわれわれに教えてくれた。そしてそのシナリオを描くのに必要なものは、専門知識もそうだが、常識にとらわれない発想だ。これは先例にならうことに慣れた官僚組織が最も苦手とするものなのかもしれない。

 迫り来る危機は、少なくともその前兆は、かなり前から予測できるものだと思う。東日本大震災もそうだった。貞観津波の実態をもっと深刻に受け止めていれば、いくらかでも犠牲者や被害を食い止めることができたかもしれない。

 自然災害ではないが、人口動態の変化によって日本の税制や社会保障制度を変えていかなければ大変なことになることも分かっていたはずだ。それなのに、消費税を引き上げる法案だけを何とか国会を通し、社会保障制度の改革は先送りにするというのは、やはりシナリオがないからだと思う。

 自然災害と違って、いつどうなるかをだいたい読めるのが「社会の変化」。そこの考え方を変えないかぎり、世界の中でどんどん沈下しつつある日本が浮上するのは容易ではあるまい。

著者プロフィール

藤田正美(ふじた まさよし)

『ニューズウィーク日本版』元編集長。1948年東京生まれ。東京大学経済学部卒業後、『週刊東洋経済』の記者・編集者として14年間の経験を積む。85年に「よりグローバルな視点」を求めて『ニューズウィーク日本版』創刊プロジェクトに参加。1994年〜2000年同誌編集長。2001年〜2004年3月同誌編集主幹。インターネットを中心にコラムを執筆するほか、テレビにコメンテータとして出演。2004年4月からはフリーランスとして現在に至る。


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