「『軒先の石ころ一つまで俺のもの』と語った創業者から学んだのは、社長としての覚悟」――株式会社メイテック 西本社長トークライブ“経営者の条件”(2/3 ページ)

» 2011年05月10日 07時00分 公開
[岡田靖,ITmedia]

「非常識」な創業と、社会の中で求められる「常識」の間で

 そんな派遣技術者という生き方を説き続けてきたのが、メイテック創業者の関口氏だった。「好況不況に関わらずメーカーの設計室はいつも明かりが灯っている。そこは忙しいから人材のニーズがある」と気付き、この事業を立ち上げたという関口氏を、西本氏は「今でも心から尊敬している」と語る。

 メイテックの設立は1974年。当初は派遣労働に関連する明確な法令が存在せず、いわばグレーゾーン。ようやく労働者派遣業法が施行されたのは、10年以上も後の1986年、つまり当時は社会的にも想定されていなかった分野というわけだ。そこに着目し、事業を立ち上げて軌道に乗せたのは、まさしく関口氏の功績である。

 「関口さんは、そんなことをしいていて儲かるのか、と言われるようなことをやってビジネスとして成り立たせる、いわば非常識な人だった。しかし一方で、会社というのは社会の中で常識的な存在であることが求められる。両立させられなければ長続きしない」(西本氏)

 競走馬の馬主としても知られ、TV番組などへの露出も多かった関口氏。西本氏は、その関口氏の活動を長年に渡って支えた経歴を持つ。いつか起業したいという考えで、カネボウから転職してきた西本氏。起業の前にベンチャーで仕事をしたいと考えており、当時未上場だったメイテックの募集を新聞広告で見かけて選んだという。

 募集職種は社長室スタッフ。入社から10年を経た1994年には、西本氏は社長室長に就任する。その社長室長という役職では、西本氏の前任者たちの多くが長続きしなかったが、西本氏だけは違った。強烈な個性の持ち主である社長の関口氏に対し、自分の考えを直言することもあったとのことだ。それが逆に、社長に気に入られる結果となったようだ。1995年には37歳の若さで取締役に就任している。

 しかし1996年、西本氏ら取締役たちは重大な決断を迫られる。バブル崩壊でメイテックも業績が大きく落ち込んだ後、ようやく回復し始めた頃だった。

 「バブル崩壊の1991年から2年間で6000名の社員のうち2500名に辞めてもらって、ようやく生き残った。文字通り血を流して生き延びた状況だ。しかし、ようやく回復し始めたと思っとき、関口さんは『会社の金で競走馬をやりたい』と言い出した。これでは社員にも銀行にも株主にも会社が見放されてしまう」(西本氏)

 関口氏の「非常識」が過ぎたというところだろう。切迫した状況を前に、西本氏は取締役の職を辞し、自ら会社を去ることでいさめようとも考えたが、先輩取締役はこう言った、「身をていしていさめても、一時的なもの。いずれまた同じようなことをやろうとするはず」。取締役たちの決断は、関口氏の社長解任だった。

 「やらざるを得ない状況だった。その後の見通しをきちんと立てていたわけではなかったが、しかし会社が存続できたということは、社員や株主たちの理解を得られたということなのだと思う。どのような会社であっても、創業者がいる。その多くは、『非常識』な人。創業者が経営する時代から、常識との折り合いをつけた次の世代へと、いかにバトンタッチしていくかというのは、多くの企業が直面する課題だ。メイテックは、解任というドラスティックな方法で、その課題を乗り越えたことになる」(西本氏)

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