危機を乗り切るために経営者がすべきこと――スズキ社長に学ぶ問われるコーチング力(1/2 ページ)

過去に2度の経営危機を乗り越え、現在3度目の至難に直面する軽自動車の雄、スズキ。度重なるピンチをチャンスに変え、決してあきらめることのなかった鈴木社長から学ぶべきことは多い。

» 2009年04月15日 07時30分 公開
[細川馨(ビジネスコーチ),ITmedia]

 未曾有の経済危機と言われて久しいが、下落を続けていた石油や素材の価格が上昇し始め、ようやく回復の兆しが見えつつある。この4月から三菱化学などの大手化学メーカーが石油化学製品の主原料であるエチレンの工場稼働率を75〜90%に引き上げたり、村田製作所が電子部品工場の稼働率を75%に高めたりしている。トヨタ自動車や日産自動車などの自動車メーカーも減産幅を圧縮し始めており、産業界全体で減産緩和の動きが広がっている。これは国内需要の回復によるものではなく、中国の需要によるものである。とはいえ、経済危機が表面化してからすぐに対策を練り、対応してきたからこそ、実現できているのだ。

 リーダーはいろいろな困難に直面するが、歴史や過去の経験から学ぶことが大切だと考えている。経済危機の影響を最も大きく受けているといわれる自動車業界において奮闘するスズキの鈴木修代表取締役兼会長の著書『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版社)を読む機会があった。リーダーとして学ぶことが多かったので紹介したい。

会社存亡の危機は25年周期でやってくる

 鈴木氏が社長に就任してから30年が経つ。当初、スズキの連結売上高は3232億円だったが、現在は3兆円を超えている。事業地域についても、以前の国内市場中心から、現在では売上高の構成が国内23%、海外が77%になっている。

 彼は危機について、「会社存亡の危機も、商品の寿命も、25年周期でやってくる」と語っている。スズキは過去、2度の危機を乗り越えてきた。1度目は1950年に労働争議が起こり倒産寸前まで追い込まれたとき、2度目は1975年、車の排ガスによる大気汚染が社会問題となり、厳しい排ガス規制が導入されたときだ。基準をクリアする新型エンジンの開発に取り組んだものの失敗した。しかし、トヨタがエンジンを分けてくれたおかげで、危機を脱したのである。それから25年後の2000年。3度目の危機の備えて身構えていたものの、そのときは何も起こらなかった。現在、数年遅れて3度目の危機が訪れていると、鈴木社長は語っている。

 彼を見て、経営者として大切だと思えることがあった。1つ目は、「ピンチをチャンスととらえる」ことである。これまでも当連載で何度となく言ってきたことでもあるが、鈴木社長も「ピンチをチャンスに」という視点を常に持って経営にあたっている。

 スズキは1979年に軽自動車の「アルト」を発売した。アルトは1978年に鈴木氏が社長に就任してから、初めて世に送り出した車である。今なお売れ続けるこの車は、5回のフルモデルチェンジを経て、累計販売台数は477万台に達している。しかし前述の通り、発売当時のスズキは排ガス規制対応の新型エンジンの開発に失敗し、会社として打ちひしがれていた時期にあった。鈴木社長自身も、1977年6月に2代目社長の義父が亡くなり、10月に創業者の祖父が、11月に現職社長だったおじが相次いで病に倒れ、婿養子である自分にすべてがのしかかってきていた。

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