民族系最大の石油会社を一代で築き上げ、日本の石油王と称された佐三だったが、実は敗戦後には身ぐるみはがれた状況に陥っていたのである。戦前、手広く海外展開を進めていたため、敗戦の痛手は計り知れないものがあった。同社のサイトは次のように記している。
「1945年8月15日、終戦により出光は全事業と在外資産を一挙に失ってしまいました。残ったものは、当時の金額で260万円の借金と、国内外約1000名の従業員だけでした」
現在の貨幣価値にして500億円余りの借金が残った上、石油販売は占領政策により事実上、停止状態だった。こうした状況下、朝鮮半島、中国大陸、さらに南方に派遣されていた従業員約800名が次々と復員してきた。同様の状況にあった多くの企業では、当然のように人員整理が行われた。しかし佐三は、莫大な借金をものともせず、国内外1000名の従業員を宝の山と信じて人事には手をつけなかった。佐三は次のように語っている。
「重役会の決議で一応全部やめさせて、そのうち出光再建のために必要な人を何人かとろうじゃないかといってきた。わたしは、それはいかん、社員は解雇しないという主義だから、こういうときこそ実行しなければ駄目だといった。ところがこれを聞いた重役連中は、わたしの考えはおかしいと思ったらしい。しかしわたしはこういう辛苦を重ねてきたこの人たちこそ、必ず将来、なすことのある人だと信じていた。事業はすべて人間が基礎であるという主義でやってきたから一人の人員整理もしなかった」*3
石油事業を手掛けることが出来ない以上、雇用維持のためにはほかの事業に手を出さねばならない。農業、漁業、印刷、醸造、そして「電気の修繕みたいなことや海軍の使っていたタンクの底のドロみたいな油をくみ出す仕事」*4まで手当たり次第に手掛けることとなった。しかし新規事業の大半は軌道に乗らず、経済界には佐三の発狂説、ついには自殺説まで流れたという。
世の中分からないものである。佐三が「電気の修繕みたいなこと」といったラジオの修理業は、戦後の出光興産発展の礎となる。当時、ラジオは生活の必需品であり占領軍にとっても広報手段として重要なものだったが、戦争の影響で国内にあったラジオの多くが故障したままの状態だった。これに目をつけた佐三は、旧海軍の技術者を集めるなどして修理販売店を全国に構えることとなった。この事業も収支そのものは厳しいものだったが、外地から引き上げてきた従業員に仕事を与える役割としては十分なものだった。
この修理販売店が「全国主要都市に約50店舗を開設。将来の石油販売の拠点網づくりの布石となりました」とされるように、1940年代半ばに石油の消費統制が解禁されると、石油給油所へと衣替えを果たすこととなる。後に日本にも車社会の波が押し寄せ、販売網の拡充が進められたが、その原点は本当に苦しい時代に手掛けたこのような事業にあったのである。
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明治学院大学 経済学部准教授