石川島播磨重工業、東芝の再建を経て、土光が最後に取り組んだのが日本の再建であった。そのために土光は鈴木善幸総理から請われ、第二次臨時行政調査会の会長を引き受ける。果たして、その顛末とは――。
土光敏夫にとって、財界総理の座にまで上りつめた石坂泰三は“運命の人”といっても過言ではあるまい。最初の出会いは1937年、土光が石川島芝浦タービンの取締役に就任し、役員会に出席するようになったときのことである。当時、石坂は同社の大株主として同社の重役会に出席。土光はそこでの猛烈な働きぶりを認められ、石坂から東京芝浦電気(現・東芝)の再建を託されたことはすでに記した通りである。
そんな土光を石坂は、財界のひのき舞台に引き上げた。1968年、6期12年の日本経済団体連合会(経団連)会長の座を去るとき、石坂は名代として東京芝浦電気の社長であった土光を経団連の副会長に抜てきする。会社のために働き続けた土光は、確かに経済同友会を除く経済3団体とかかわりはあったものの、末端の委員を務めるだけに過ぎず、それまで財界活動とはほぼ無縁であった。
経団連の委員長経験もない土光を副会長に抜てきした狙いは果たしてどこにあったのか。もしかすると東京芝浦電気の再建のため、石川島播磨重工業(現・IHI)の会長としてゆとりある時を奪ってしまった“借り”を返すためではなかったのか。その真相を確かめる術はもはやないものの、ともあれ、こうして土光は財界活動の第一歩を踏み出すことになったのである。
経団連副会長、会長、そして名誉会長を歴任した土光の仕事に向かう姿勢は、石川島播磨重工業や東京芝浦電気時代のそれと変わることはなかった。毎朝7時半に出勤しては、事務局に次々と指示を出し、せっかちとも思えるほど早急な回答を求めた。経団連の会長であったある日、経団連の役員に対して公定歩合を一日でも早く引き下げるよう命じた土光は、その日の夕方には担当役員に「公定歩合は下がったか?」と尋ねたという話もある。もちろん、そこでの土光の狙いは公定歩合の引き下げとは別にあったのであろう。
当時、経団連で会長が登場するのは、すべての手はずが整ってからのことだった。だが、この方法では事務方の調整に多大な時間を要し、タイムリーな決断を下すことが難しい。この改革を経団連に改革を求めたのではないのか。「ここでは日本語が通じないのか」「経団連をつぶしてやろうか」との発言は、土光のいらだちの証左であろう。土光の強烈なプレッシャーによって経団連は、土光が先頭を切って動き、空けた風穴に事務局の雑兵が群がり前進するという兵法に転換することになったのである。
もっとも、そうなれば当然、土光のスケジュールは過密さを増す。だが、土光は、多忙を決して厭うことなく、逆に、秘書には「構わんからどんどんわしを使え。上手にわしを使えたら一人前だ」と告げ、朝食会を開き早朝に会議の場を持つなど、できる限りの時間を財界活動に割いた。もっとも、「芸者などの居るところで本当の話ができるはずがない」と、夜の宴会だけは決して参加することはなかったところに、土光の人柄を見ることができよう。
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早稲田大学商学学術院教授
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明治学院大学 経済学部准教授