土光敏夫が社会人としての道を歩み始めたのは1920年。就職先は東京石川島造船所である。同社は当時、待遇が決して良いとは言えず、就職先としての人気は高くはなかった。だが、土光は技術者としての志を胸に同社を選ぶ。
「第1回 行革の獅子と猛烈企業家の顔を併せ持つ男」はこちら。
石川島重工業(現、IHI)や東芝といった名だたる大企業で社長の職を、さらに、日本経済団体連合会(経団連)で会長、名誉会長という要職を歴任した土光敏夫。とはいえ、土光の社会人としての船出は、決して華やかなものではなかった。1920年、東京高等工業(現、東京工業大学)の卒業にあたり土光が就職先に選んだのは、後の石川島重工業である東京石川島造船所。だが、同社は当時、世間相場からみても待遇が良いとは言い難く、初任給はある大手海運会社と比べ、諸手当を含めても半額に満たなかったのである。当然、学生の人気も低かった。にもかかわらず、土光はなぜ石川島を選んだのか。その動機を、土光はこう述べている。
「技術者の道を歩けるなら、就職先はどこでもよいと考えた。クラスの皆にいいところを選んでもらって、わしは残り物に甘んじた」
残り物に甘んじる―――。それは日本的な義侠心、あるいは親分肌の表れだったのだろうか。だが、土光のこの言葉からうかがうことができるのは、大学時代に学んだタービン(蒸気やガスなどのエネルギーを動力に変換する装置)技術を、技術者として極めるとの断固たる決意だ。偶然にも“残り物”として選ぶことになった石川島は、それ故に土光にとって腕を磨く絶好の職場となった。三菱造船所や川崎造船所などの名だたる造船所には、当時すでにタービンのエキスパートが在籍。これに対し、石川島には東京高等工業の出身者がいなかったことから、タービン技術者としてより大きな責任の仕事が任されやすい環境にあったのだ。
実際に、入社してすぐタービンの設計課に配属され、陸上タービンの開発を命じられた土光は、その翌年には石川島の技術提携先であったスイスのエッシャーウィス社への留学生に選抜される。世界で初めて出力1000キロワットのエンジンの製造に成功した同社の技術は、陸上機械部門への進出が急務となっていた石川島にとって、のどから手が出るほど欲していたものであった。そして、土光は技術移転のために2年半にわたり、油まみれになってスイスで同技術を学ぶ。万一、他社を志していたとするならば、若くして世界最先端の技術に触れる機会を得ることができただろうか。
もちろん、任される仕事が大きいほど、やりがいも増すのが人間だ。土光が、「土光タービン」と称されるほど猛烈に働いたのも、技術者としての志と、志を貫ける場の双方がそろっていたからではないか。ともあれ、土光は入社以来、毎朝4時には起床し、築地へ買出しなどに行く魚屋と同じ電車で、佃島の会社に通勤した。タービンの開発に生かすため、東京高等工業の先輩や同級生に頼み込み、他社のタービンを徹底的に見て歩いたという逸話もある。
「体は丈夫だったし、新知識を吸収しようというんだから、早起きは全然苦にならなかった」(土光)
のちに石川島重工業の社長になった土光は、試運転をしていたタービンの異常の原因をその駆動音から見抜いて、周りの社員を驚かせた。これもひとえに、技術者としてのスキル蓄積のたまものにほかならない。
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早稲田大学商学学術院教授
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明治学院大学 経済学部准教授