技術者としての決意を胸に、“残り物”を進んで選ぶ――土光敏夫【第2回】戦後の敏腕経営者列伝(2/2 ページ)

» 2009年06月02日 08時15分 公開
[岡崎勝己,ITmedia]
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“剛”の“柔”の2つの顔を使い分け、会社再建に奔走

 土光が経営者としての道を本格的に歩み始めたのは、1937年、石川島と芝浦製作所(現、東芝)が折半出資して設立した石川島芝浦タービンの取締役に就いてからのことであろう。

 1946年には社長に就任。そこでの逸話も少なくなく、戦後のインフレによって資金繰りに窮した際には、取引のあった銀行に駅弁を携え訪れて、「メシを食いながら話をつけよう。夜が明けるまででも構わない」とねじ込んだ。また、機械業界の振興を目的とした補助金を引き出すために連日、通産省に通い詰め、そのころから霞ヶ関で知られる存在だったという。目的を達成するためには骨身を惜しまず尽力する―――技術者、土光の猛烈さを支えたであろうこの精神は、経営者になっても変わることはなかった。

 こうした働きが認められ、土光は1950年、経営危機に見舞われた石川島重工業の社長に抜擢される。そこで土光は会社再建に尽力することになるが、そのやり方で興味深いのが、“剛”と“柔”の2つの顔を使い分けたことである。

 まず、管理職に対しては剛の面を徹底的に押し出した。社長就任の当日には挨拶もそこそこに社内の領収書を集めさせ、領収書の山を前に取締役から部長、係長まで社長室に呼び出し1人ずつしかり付けた。戦後しばらくは、食うや食わずの時代だったことから、接待が注文を取る一番の方法になっていた。その習慣が赤字経営になっても続いていたことを問題視し、重役を含め管理職に対して、半ば強引とも言える方法で冗費削減を求めたのである。この効果は絶大で、土光が社長になった翌月から石川島の経費や冗費がわずか10分の1にまで減ったとの話もある。

 稟議書や報告書にも目を光らせた。連絡事項に何か不都合がある場合、その隠ぺいのため記載内容をごまかすことは往々にしてあることだ。だが、土光はそうした手に乗ることなく、問題個所をズバリ突いた。その洞察力には一種、神がかり的な雰囲気もあったという。こうした“剛”の取り組みによって石川島では合理化が急速に進展するとともに、会社の空気は締まっていったのだ。

 その一方で、工場など、現場の従業員には柔の面で対応にあたった。「ワシは絶対に諸君の首を切らない。その代わり、こちらの注文どおりの仕事をしてもらう。それで文句があるなら、いまここで言ってもらおう」と雇用を確約した上で、労組に協力を求めたのである。むろん、組合は“話せる経営者”として土光の言い分を全面的に受け入れた。経営危機に陥りながらも人員整理を回避できたのは、こうした土光の組合対策に負うところが大きかった。もちろん、当時とは置かれた状況が大きく異なるが、不況になると合理化の掛け声の下、人員整理に走りがちな最近の経営者とは大きく違うところではなかろうか。


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