【第12回】一等級の働きをした「三等重役」――住友生命の事例ミドルが経営を変える(1/2 ページ)

戦後間もなくGHQによって断行された公職追放により、多くの日本企業は経営トップを失った。その穴埋め役になったのが「三等重役」と呼ばれた若き実業家たちだった。

» 2008年12月11日 08時30分 公開
[吉村典久(和歌山大学),ITmedia]

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 「三等重役」あるいは源氏鶏太。懐かしい響きを覚える読者は数えるほどで、多くは初めて見聞きしたかもしれない。当連載ではミドルを軸とする従業員が経営者に「モノ言う」必要性や、その具体的な一手段として経営者の選任に彼らが関与すべきだという主張を展開してきた。

 ミドルをはじめとする従業員が選任にかかわるなど夢物語だと思われるかもしれないが、日本企業の経営の歴史を振り返ると、実はそうした事例が既に存在することが分かる。日本では第二次大戦後、三等重役とやゆされた新しいタイプの経営者が登場した。この背景には従業員が深く関与していることがいくつかの事例から明らかになっている。

仕方なしに着任した「三等重役」

 第二次大戦後に日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、いわゆる経済民主化政策を推進した。その一環として実施したのが財閥解体であった。三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社といった4大財閥本社をはじめ相当数が解体させられ、傘下企業は別々に切り離されることとなった。その時住友本社会計課に所属していたのが、冒頭の源氏鶏太である*1。解体後は新会社の泉不動産(現・住友不動産)の総務部次長になった。

 源氏の上司から言われたのが、旧国鉄の客車の等級にならって当時の経営者を評した次のような呼び名だった。


「いま重役は三等まである。一等は資本家重役、二等はエリートコースを進んでなるべくしてなった重役、そして、戦後の財閥解体・追放で上層部に空白ができ、仕方なしになったにわか重役が三等重役だ」*2


 財閥系企業のみならず、非財閥系の有力企業においても、戦前からの役員に対して公職追放(パージ)が実施された。これにより、合計3600人以上の経済人が退場する事態となった。これを埋めるべく登場したのが、三等重役と呼ばれた若き人々だった。

戦後のサラリーマン小説の代表作に

 彼らの多くは年若い役員、部長、工場長などだった。前任者よりも総じて10歳は若返ったとされている。例えば、日立製作所では創業社長の小平浪平が公職追放され、後任に指名されたのは終戦時に山口県の笠戸工場長を務めていた倉田主税だった。73歳の小平から58歳の倉田への社長交代だった。安田銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)、東洋レーヨン(現・東レ)、住友金属工業についても、新社長は終戦時にそれぞれ名古屋営業所長、滋賀工場兵器部長、技術部企画課長でしかなかった。

 源氏はある短編の中で上司のこの話に触れた。すると有名雑誌から連載依頼が舞い込み、1951年に戦後のサラリーマン小説の代表作とされる『三等重役』が生まれた。


「うん。わしは社長であった。しなしながら、ありていにいうならば、ようまァ、このわしが社長になれたようなもんである」(原文ママ)


 先輩がパージの憂き目に会い、そのせいで社長になった人物に、源氏はこのように語らせている。戦後の世相にも触れながら、不安を抱えて社長業に励む姿を戯画的に描いたこの小説は当時のベストセラーとなった。


*1 「英語屋さん」ほかで1951年、第25回直木賞を受賞

*2 「読売新聞」1995年1月7日付朝刊

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