石川島播磨重工の会長であった土光敏夫は、尊敬する東芝会長、石坂泰三のたっての頼みで東芝の再建に乗り出す。そこでの土光の手法は石川島時代と同じく、アメとムチを交えたものだった。そうした土光流の改革は東芝に確かな変化をもたらす――。
土光の人生を“貧乏くじ”と称するものがいる。実は土光は受験に一度失敗した後、代用教員を務めながら勉学に励み、翌年には東京高等工業(現・東京工業大学)の機械科に首席で入学。だが、同校への進学は、農家であった実家への金銭的な気遣いから、旧制高校、そして帝国大学へと進む道を断念するという苦渋の決断を経たものでもあった。また、就職に際しても、自ら進んで旧友を待遇の良い会社に進ませ、自身は“残り物”であった東京芝浦造船所(後の石川島重工業、現IHI)へ入ることを選ぶ。ちなみに土光は、家業の手伝いに追わざるを得なかったために、旧制中学の受験でも3度、失敗を経験している。これらのことを踏まえたが故の“貧乏くじ”というわけだ。
この論で言えば、急激なインフレによって経営難に陥った石川島重工業の社長として、会社再建という重責を託されたのもまさに“貧乏くじ”。だが土光は、徹底的な合理化や海外からの技術導入によって会社を建て直し、さらに、1960年には播磨造船所との合併にこぎつけ、石川島播磨重工業を誕生させることで新たな成長軌道への礎を築く。造船に強かった播磨造船と、陸上機械の売上比率が高かった石川島重工が1つになったシナジー効果により、その後、IHIが発展を遂げていったことは周知の通りである。
そんな土光に、新たな会社再建話が持ち込まれたのは1965年。つい前年に社長を退き、しばしのゆとりある時期を過ごしていたころのことだった。齢は68を数え、体力はとうに盛りを過ぎていたはずであろう。だが、尊敬する東京芝浦電気(現・東芝)会長、石坂泰三のたっての頼みとあっては、断るのもはばかられた。加えて、土光自身、頼まれれば断ることができにくい性格だったこともあり、最終的には東芝で第二の再建屋人生を歩むことを決断する。その働きぶりが期待されたが故の貧乏くじとは、何とも皮肉なものである。
ただし、一度引き受けたからには、骨身を惜しまず尽力するのが土光の性分だ。そこでの土光は、またもや“剛”と“柔”、言い換えればアメとムチを使い分け、東芝再建に取り組んだ。
まず、ムチを使って行ったのが重役、さらに社員全員の意識改革である。当時の東芝は、高度成長期を経て社風が華美になり、例えば社長室には専用のバスやトイレ、専属コック用の調理場まで設けられていたほどだった。だが、土光は重役の意識改革のためにそれらを叩き壊して大部屋にし、重役陣を集めた「重役長屋」にしてしまう。しかも、自動給茶機を持ち込み「お茶は自分で入れろ」と指示する。
出勤方法も石川島方式をそのまま持ち込んだ。土光は毎朝8時前には必ず出勤。そうなれば役員も早朝に会社へ向かわざるを得ない。必然的に、部課長レベルの社員も引きずられ、一般社員も見て見ぬふりは心情的にできにくい。さらに、本社の空気が変わったことを敏感に察知した工場や営業店でも、自発的に朝礼などが行われるようになったのである。
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早稲田大学商学学術院教授
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明治学院大学 経済学部准教授