現代の地名や土地利用に隠された本来の土地の様子を古地図で知るITmedia エグゼクティブ勉強会リポート(1/2 ページ)

標高地形図やかつての古地図を合わせれば視覚的にそこがどういう土地だったのか分かる。

» 2025年09月25日 07時05分 公開
[荻窪圭ITmedia]
『古地図で訪ねるあの頃の東京』

 ITmediaにはデジカメレビューやスマートフォンカメラのレビューでお世話になっている荻窪圭です。

 今回は「現代の地名や土地利用に隠された本来の土地の様子を古地図で知る」というテーマで講演をさせていただいたわけだけど、もともと紙媒体の時代からIT系専門のライターでITmediaも創刊時からカメラ関連を中心に記事を書いていたのがなぜこういうテーマで喋ることになったのか。

 実は2010年に趣味が高じて刊行した「東京古道散歩」(中経の文庫)をきっかけに、街歩きの講師をはじめたり地形や暗渠マニアの人たちと交流を行いはじめ、教科書で有名な山川出版社から「古地図と地形図で発見!」シリーズを3冊刊行するなど、古地図を使った歴史散歩系の仕事も増えてきたのである。

 その縁で今回の講義を依頼されたのだが、大事なのは古地図や地形といった一般にはあまり馴染みがないジャンルをどうリアルに落とし込んでいくといいのか。

 そこで注目したのが地名。

 夏から秋の台風シーズンになると(昨今はシーズン関係なく、線状降水帯が発生するなど「記録的短時間大雨情報」が出されることが多くなり、より切迫しているのだが)、毎年の様にさまざまなサイトに「この地名は危険!」と煽るようなコラムが掲載される。

 でもそれにはそのまま真に受けては危険な要素がいくつもあるため、現在の地名にはどんなものがあるかという話からはじめた。

その地名がつけられたのはいつであったかは重要

 地名をおおざっぱに、古代〜中世からの地名、江戸期につけられた地名、明治以降につけられた地名の3つに分けてみた。

 俎上に上げたのは青山通りとその周辺の現代の地名。

青山通り沿いの著名な地名は付けられた時代も意味も異なる点で特徴的。

 青山通りにうまい具合に「谷」「山」「坂」と地形に関連しそうな地名が並んでいたからだ。

 この中で渋谷は確実に、赤坂はおそらくは江戸時代より前からある古い地名である。

 どちらも古い地名故、語源についてははっきりせず、諸説ある。

 赤坂は「赤土が剥き出しの坂」という説が有力。その坂は現在の赤坂見附交差点から永田町方面に上る青山通りの坂の可能性が高いが、その交差点から北に向かう紀伊国坂を指すという説もある。

 渋谷は文字通り、地名が地形を現している例で、川が作った谷地だ。渋谷の「渋」が何を現すかは諸説あり、人名(渋谷氏)が先という話もある。平安時代からの地名と考えられているが、確実なのは室町時代の文書に「しお屋」という名が出てくること。そこから当初は「塩谷」だったのではないかという説もある。

 渋谷川が作った谷であり、渋谷駅がちょうど谷底にあることや、渋谷川に宇田川(暗渠化されているが地名として残っている)が合流する地点であるから大雨が降ると駅前は大変なことになる。現在は集中豪雨や台風に備え、再開発にともなって地下に巨大な雨水滞留施設が作られるなど、対策は打たれている。

 続いて、江戸期に由来する地名。

 赤坂と渋谷の間は青山だ。赤坂に青山なので、そういう山がありそうであるが、実は家名。徳川家康が江戸に入部した際、三河時代からの家臣青山忠成に広大な土地を与え、のちにその一帯が青山と呼ばれるようになったのだ。地形に由来しそうだが、それとは無関係なのだ。

 一般的に、古代から中世に付けられた地名はその土地の地形や地勢を反映したものが多いが、江戸期以降はそうとは限らない。現代から見ればすべて古い地名だが、時期によって異なるのだ。

 渋谷や青山の北西にあるのは「神宮前」語源となった明治神宮は大正時代に創建された神社であるから新しいことはすぐ分かる。昭和に作られた地名だ。

「神宮前」の前の地名は「原宿」と「穏田」だった。今は全部神宮前。明治神宮強し。

 それ以前の地名は、原宿と穏田(おんでん)。原宿はかつて鎌倉街道の宿があったのが由来と言われている。穏田の地名由来は分かっていないが、渋谷川沿いの低地に付けられた名前であり、川沿いの低地に水田があったことと無関係ではないだろう。

 高度成長期の住居表示の実施で、古い地名である原宿と穏田が住所から消えてしまったのは残念である。

 青山通りの南東にある麻布も江戸時代より前からある古い地名で、戦国時代の文書には「阿佐布」と書かれている他、江戸時代前期の地誌には麻生や浅府、浅生とするたものもあった。麻布に定着したのは江戸時代半ばのこと。

 地名は古いほど「音」が重要で、漢字はあとから当てはめられたもの。なので古いものほど表記に揺れがある。漢字からの印象でその土地を判断するのは間違いの元だ。

現代の瑞祥地名の悲喜こもごも

 明治以降、町村合併や住居表示などをきっかけに新しい地名がつけられるようになった。特に元の地名や集落名とは関係なく縁起のいい名前を付けるケースは数多い。「千歳」や「旭」「希望」「青葉」などが分かりやすいところで、そこに「〜台」や「〜丘」がつく。東京都大田区には「蛇窪」が「二葉」になった例があるし、世田谷区には「廻沢」が「千歳台」になった例がある。窪や沢といった低地を示す地名がいやがられたのだろう。ちなみに「調布」もそうだ。それらを「瑞祥地名」と呼んでいる。

 今回の講義ではそういった新しい地名から自由ヶ丘と田園調布を取り上げた。ここでは自由が丘編を抜粋したい。

 自由ヶ丘は大きな台風や集中豪雨でしばしば被害を出しており、そのたびに「丘」なのに浸水とは、と言われてしまう災難な地名である。

 自由が丘のあたりは「谷畑根」という地名だった。

 昭和初期、台地上に学校が創設され「自由ヶ丘学園」と名づけられたのがそもそものはじまりだ。まさに丘の上に作られたので何の矛盾もない。

 その後、九品仏川沿いの低地にあった駅名が九品仏駅から自由が丘駅に改称され、やがて周辺の地名も自由が丘に変わってしまったのである。

左が昭和初期の自由が丘。まだ古い地名が残っている。右が昭和の自由が丘。住所が自由が丘に変わっている。駅は川沿いの低地にあるためこのあたりは水害にあいやすい。

 自由が丘自体は確かに「丘」で、地名を聞くと高台をイメージするが、住所としての自由が丘は高台から川沿いの低地まで広く含んでおり、水害を受けやすいのは川跡沿いにある駅周辺なのだ。

 【2925年9月15日追記】講義後の2025年9月11日、東京でも記録的な豪雨に襲われ、世田谷では観測史上最大となる1時間に92mmの雨が観測された。その際、自由が丘駅前の商店街も浸水被害を受けた。

 同日、大田区の戸越銀座商店街も大雨で浸水。

 実は戸越銀座は、小さな川が作った谷地の跡なのだ。明治の地図を見ると狭い谷に水田記号が並んでいるのが分かる。川跡に商店街を作ったのである。地形的に水捌けが悪いため、銀座の煉瓦街で使っていたレンガの瓦礫を運んで敷き詰めたのが「戸越銀座」に「銀座」と名づけられた由来だそうな。

 自由が丘駅前にしろ戸越銀座にしろ、地形的に水が集まりやすいのは分かっており、対策もなされているのだが、想定以上の集中豪雨により、想定した排水能力を越えた水が一気に入り込んで溢れてしまったと考えるのがいいだろう。

       1|2 次のページへ

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

ITmedia エグゼクティブのご案内

「ITmedia エグゼクティブは、上場企業および上場相当企業の課長職以上を対象とした無料の会員制サービスを中心に、経営者やリーダー層向けにさまざまな情報を発信しています。
入会いただくとメールマガジンの購読、経営に役立つ旬なテーマで開催しているセミナー、勉強会にも参加いただけます。
ぜひこの機会にお申し込みください。
入会希望の方は必要事項を記入の上申請ください。審査の上登録させていただきます。
【入会条件】上場企業および上場相当企業の課長職以上

アドバイザリーボード

根来龍之

早稲田大学商学学術院教授

根来龍之

小尾敏夫

早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授

小尾敏夫

郡山史郎

株式会社CEAFOM 代表取締役社長

郡山史郎

西野弘

株式会社プロシード 代表取締役

西野弘

森田正隆

明治学院大学 経済学部准教授

森田正隆