――この「書楼弔堂」という小説は「高遠」という、妻子を実家に置いてきて働きもせずにふらふらしている男の視点――というか、「高遠」の存在が中央にいて物語が進んでいきます。ただ、最後の章はその「高遠」が中心になるものの、それ以外の章においては、「高遠」がいてもいなくてもどちらでもよい存在のように思えたんですね。「高遠」がいなくても物語は成立してしまう。
京極:高遠という人は“要らない人”ですね(笑)。全く世のため人のための役に立っていない。
明治というのは激動の時代といわれます。明治を舞台にする物語の多くは、時代立ち向かう英雄や、新たな時代を切り開いていこうとする偉人を中心に描かれることが多いんですが、別にそういうヒーローばかりがいたわけじゃない。いつの時代もそうですが、ぼーっとした人やびくびくした人や迷ってる人や、そういうグダグダな人の方が圧倒的に多かったはずです。
明治維新があって、近代国家の礎が築かれていくなかで、じゃあ庶民は何をしていたのかというと、ほとんどの人は、“起きて、食って、仕事して、寝て”いたんですね。自由民権も四民平等も、とても大事なことです。ただ、四民平等になっても豆腐屋さんは変わらずに毎日豆腐を作っていたわけで、日常生活に何も変わりはない。じゃあそういう人達は時代の転換に一切寄与していないのかというと、決してそんなことはないんですね。
世の中というのはひと握りの人がぐいぐい変えられるようなものじゃない。そういう風に見えるだけで、実はその他大勢が受け入れてくれるかどうかの方が大きいと思う。ドラスティックな転換というのは頭の中で起きるものでしかなくて、実はソフトランディングに変わっていくものだろうと思います。そうすると、明治時代にもいい歳をして働かず、妻子とも一緒に住まずにぶらぶらしている、いわゆる“ダメな人”もいたはずですね。
こういう人が本を読んでも何の役にも立たないわけですが(笑)、実は読書というのはそういうもんなのではないかと。読んで役に立つとか、人生が変わるとか、そんなことはない。本は読んで面白ければいいもんだと思うんです。本って基本的に役に立たないものですから。役に立つのはマニュアルくらいのものですよ。
弔堂の主人は、訪れる客に対して一冊の本を渡しますけれど、それはその人を更生させようとしているのではなくて、その人の人生を後押ししてるだけなんですね。
――確かにそうですね。その人とは逆の本を渡しません。
京極:ダメな人には、ダメっぷりを後押しする本を渡してますし。高遠はいろいろ悩んでいるようなんですが、あれは悩むフリをして自己正当化を図っているだけで、まさに下手の考えなんとやら、ですね。人生に決断は必要ですが、結論は必要ない。ものごとには結果がありますが、人生は終わるまで結果なんか出ない。人は死ぬまで未完です。同時に、人は簡単には変わらないし、成長もしません。なら悶々としているより、ダメな部分を含めて自分なんだと知ることの方が有意義ですね。高遠もまったく成長しないですから
――最後に少しだけ成長をうかがえる部分があるようにも見えましたが……。
京極:どうでしょうか。むしろ退化しているんじゃないかという気もします。
――この連作短編が「未完」という章タイトルで終わるのも、とても印象的でした。終わらせないというか、終わりがないというか。
京極:そうですね。エンドマークが出るのは小説やドラマだけです。私たちの住む世界は終わりません。人は何かと節目や折り目をつけたがりますけど、例えば誕生日を迎えたからといって、翌日から新しい人生が始まるわけではないですね。目が覚めればいつもと同じ一日です。生まれ変ったような気になるのは良いことでしょうが、生まれ変りたいと願うのは、ない物ねだりです。
――短編それぞれの章の最後が「誰も知らない」という言葉で締めくくられているのは、京極さんがリアリティを突き詰めていった結果なのでしょうか。
京極:それは、僕が知らないからです(笑)。なら誰も知らないはずです、その後のことは。
それから、あまり指摘されないんですが、実はこの小説、厳密ではないものの一人称がないんです。「私は」「僕は」を使ってない。でも三人称一視点でもない。視点を空欄にする感じで書いてみたかったんですね。高遠がぼやっとした人というのもあるんですが、内的言語では「オレ」は省略されるはずで、読者が視点人物の空席にはまるような感じは出せないかなと。
――「視点を空欄にする」というのは、すごい発想です。
京極:これは娯楽小説なので徹底してやっているわけではないのですが、試みとしてはありかなと思ったもので。
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明治学院大学 経済学部准教授