見逃してもいい小さな綻びが、後に取り返しのつかない大惨事に発展することが多々ある。それを未然に防ぐためには何をすべきだろうか。ニューヨーク元市長に学ぶ。
最近、ある大手メーカーのミドルの方とお会いした。彼は人事・労務畑でキャリアを積んできて、現在も関連する部門で仕事をしている。大学も含めて日本の組織には「なぜ、こんなルールがあるのだろうか?」と首をかしげたくなるものが少なくない、といった類の話をしていた際のことだった。彼は次のように語った。
「わたしは社内の嫌われ者なのですよ。労務に関するトラブルが発生したときには、当該のトラブルについて大変面倒な事実の確認を微に入り細に入りしなくてはいけません。工場内の道路でのスピード違反の取り締まりも大切な仕事です。違反した従業員の上司に対して違反者への指導を言い渡す役目も担っています」
一般道の話ではない。広大な工場の敷地に立派な道路があり、スピードを上げて走る車があるとのことである。お酒が少なからず入っており、つい「そんな嫌な仕事、適当にやっておけばいいじゃないですか。嫌われるだけだし」と言ってしまった筆者に対して、彼は間髪入れずに答えた。
「うちは化学メーカーです。現場のちょっとしたミスがとんでもない大事故につながってしまうのです。工場の自主的なルールとはいえ違反は違反。小さなことかもしれませんが、安全にかかわるルールについては厳守する姿勢を示すことで、起こり得るミスをなくすのです」
こちらは真っ赤な顔をしながら小さくなるしかなかった。
これはまさしく「ハインリッヒの法則」に従った行動である*1。畑村洋太郎氏の著書「失敗学のすすめ」(講談社)で注目された法則であり、別名「1=29=300の法則」と呼ばれるものである。1件の死亡や重傷といった重大な災害が発生する背景には、29件のかすり傷程度の軽度の災害があり、さらにその背後には300件ものヒヤリとしたりハットとしたりする体験があるとの考え方である。
これを唱えたハーバート・ウィリアム・ハインリッヒは、米国の損害保険会社の技術者であり、法則自体は労働災害の事例から導き出されたものだったが、事業活動全般に適用できる考え方でもあるのだ。重大事故(顕在化した重大な失敗)の発生を防止するには事前に、300件の“ヒヤリ・ハット”のような小さなミスや不注意など(潜在的失敗)を見逃さず、それぞれの場面で適切な対策を講じる必要があるとされる。
これに類似する考え方に、Broken Windowsの理論がある*2。「壊れ窓理論」、「割れ窓理論」あるいはそのまま「ブロークン・ウインドウズ理論」などと呼ばれるものだ。犯罪学者のジェームス・ウィルソンとジョージ・ケリングが発表した理論で、犯罪防止につながる1つの考え方として割れ窓なる概念が用いられている。
空きビルなどの窓の1つが割られたままで放置されていると、そのうちにビルすべての窓が割られてしまう。さらに多くの場合、そのビルだけにとどまらず、ビルがある地域全体の治安悪化、犯罪率の上昇につながってしまう。窓に限らない。壁の小さな落書きでも同様だ。ほんの小さな綻びが、思いもよらぬ大きな問題の引き金になるとの考え方である。
窓が割れたまま、落書きが残ったままという状況が「この建物の所有者あるいは地域住民は、壊れた窓や落書きなど気に掛けていない」というシグナルを発してしまう。そして割れた窓や落書きが少しずつ増えていくのである。建物の所有者や地域住民が何の対処もしなければ、「この辺りは無法地帯だ! 落書き以外の犯罪も見逃されているに違いない。泥棒や破壊行為などやりたい放題でも許される」と考える輩をどんどんその街に呼び寄せてしまう。そして無秩序な街に落ちぶれるのだ。小さな綻びが取り返しのつかない事態を巻き起こしてしまう。
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早稲田大学商学学術院教授
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明治学院大学 経済学部准教授