あなたの知らない“ハイサワー”の世界――博水社社長・田中秀子さん(前編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(4/7 ページ)

» 2010年02月13日 05時33分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

出発は“街のラムネ屋さん”

 記憶は昭和にさかのぼる。

 戦前・戦中・戦後復興期の日本では、砂糖が貴重品。「ラムネ」や「みかん水」などの甘い飲み物は高く売れたそうだ。当時都内には、地域でラムネを製造・販売する小さなラムネ店が200軒もあった。そんな時代、創業者の田中武雄氏はラムネ工場に丁稚で入ったという。

 そして一念発起して、田中武雄商店を立ち上げたのが1928年。会社組織にしたのは、日本が朝鮮戦争の特需景気に沸いていた1952年のことだった。

 日本経済が高度成長に向けて突き進んでゆくのと歩調を合わせるかのように、同社は順風満帆な発展軌道に乗ったかに思われた。ところが1961年、コカ・コーラの輸入が自由化され、国内ラムネ市場は大きな脅威に晒されることになる。加えて国内の大手企業も、例えば武田薬品が「プラッシー」(ビタミンC入りをうたった飲料水)を販売するなど、清涼飲料水を大々的に展開。テレビ受像機の一般家庭への普及とともに、「月光仮面」などの当時の人気番組のCMを通じて広く知られるようになった。

 こうした環境変化によって、零細な町工場をベースにしたラムネ市場は一挙に厳しい状況へと追い込まれていったという。「経営危機でしたね。すでに2代目、私の父に代替わりしていまして、『ラムネは冬には売れない。冬でも売れるものを作ろう』と考えたんです。そして『お酒に絡めれば、冬でも売れるのでは?』と考えた父は、今で言うノンアルコールビールの開発に取り組んだのです。実に6年もの歳月をかけて開発したのですが、ようやくレシピが固まったところで、なんとホップのエッセンスの製造元が倒産しまして……これですべてがゼロベースに戻ってしまったんです」

博水社は目黒区の住宅街の中にある

 喫茶店向けにラムネやオレンジの濃縮ジュースを提供して経営を維持していた同社に、やがて転機が訪れる。

 「1975年に、初めて米国に旅行に行ったときに、そこで衝撃を受けたのです。それまで日本では、お酒といえばビール・ウイスキー・日本酒くらいでした。でも米国には、実にたくさんのカクテルというものがあり、みんなお酒をいろいろなもので割って飲んでいる。『そうか、ビールにこだわる必要はないんだ。日本ならではのカクテル、それも焼酎ベースで作れるものを考えよう!』と、先代は思いついたんです」

 折から、日本はレモンの輸入自由化の時を迎えていた。これで果汁も確保できる!

 「我輩の作ったサワー」を意味する「輩(ハイ)サワー」は、こうして誕生した。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

ITmedia エグゼクティブのご案内

「ITmedia エグゼクティブは、上場企業および上場相当企業の課長職以上を対象とした無料の会員制サービスを中心に、経営者やリーダー層向けにさまざまな情報を発信しています。
入会いただくとメールマガジンの購読、経営に役立つ旬なテーマで開催しているセミナー、勉強会にも参加いただけます。
ぜひこの機会にお申し込みください。
入会希望の方は必要事項を記入の上申請ください。審査の上登録させていただきます。
【入会条件】上場企業および上場相当企業の課長職以上

アドバイザリーボード

根来龍之

早稲田大学商学学術院教授

根来龍之

小尾敏夫

早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授

小尾敏夫

郡山史郎

株式会社CEAFOM 代表取締役社長

郡山史郎

西野弘

株式会社プロシード 代表取締役

西野弘

森田正隆

明治学院大学 経済学部准教授

森田正隆