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» 2014年06月02日 08時00分 公開

飛躍:国民皆保険へと動き出したインドネシアヘルスケア産業の魅力と落とし穴 (2/4)

[諏訪 雄栄(ローランド・ベルガー),ITmedia]
Roland Berger

1、最大の落とし穴は、インドネシアを1つの市場として捉えてしまうこと

 1つ目の"落とし穴は"、インドネシア全体を一括りに1つの市場として捉えてしまうことである。前述したとおり、インドネシアのヘルスケア産業の潜在性は極めて大きい。結果、この事実だけをもって、市場、ひいては参入余地を大きく捉えがちである。しかし、実際に市場をセグメンテーションしてみると、特徴を大きく異にする複数のセグメントから構成されていることがわかり、市場の「総取り」は極めて難しいケースが多い。典型的な例を3つ挙げたい。

 図Cでは、インドネシアのPublic セクターとPrivateセクターの病院数、カバーされる医療保険( 厳密には必ずしもこの限りではないが、大まかな傾向として理解頂きたい)と対象患者数(保険加入者数)、および年間医療費をもとに、両セクターの一人当たり医療費を算出している。Public、Private ともに病院数は800〜850件とそれほど差はないが、BPJSの加入者がまずアクセスできるのは、基本的にはPublic の診療所や病院になる。もちろんBPJSではPublicに限定せずPrivateの病院へのアクセスを担保しようとしているが、一人当たりの医療費が限られているBPJSの患者を無条件に受け入れてしまうと病院経営に悪影響が出るとして、BPJS 経由のアクセスを拒否する(BPJSに加入しない)民間病院が出てきつつある。

図C:PublicセクターとPrivateセクターの比較

 こうした動きもあることから、BPJSに加入する大多数の国民は、一義的にはPublic の病院を利用することになる。BPJSの財源は加入者からの保険料と国庫負担であり、財源は極めて限られている。BPJS の母体として主だったものにはJamkesmas(貧困者向け保険)やAskes(公務員向け保険)があるが、こうした保険の加入者がこれまでPublic セクターの主患者層であったとすると、2010 年にPublicセクターで使われた医療費約80 億ドルを、JamekesmasとAskesの加入者数の合計9,380万人で割ると、一人当たり年間医療費は84 ドルにすぎないことがわかる。

 一方で、Privateセクターに訪れるのは、Jamsostek(民間企業の従業員向け。2014年1月1日よりBPJS に統合)加入者や、民間医療保険の加入者が中心である。その数は2010 年時点で2, 300万人にすぎないが、Privateセクターで使われている医療費はPublicのほぼ倍にあたる152億ドル、一人当たり医療費になおすと660ドルと、Public セクターの約8倍にのぼる。Public とPrivateの医療の質に差があるというわけではない。むしろ待ち時間や院内環境に差があり、高価な医療保険に加入している患者がより快適な医療サービスを受けるために民間病院を好んで訪れている、というのが実情だ。PublicとPrivateでは、対象とする患者も、患者が支払える医療費も全く違う、ということがご理解頂けただろうか。

 今年1月からのBPJSへの移行で、Publicセクターが中心になってカバーする保険加入者数はさらに倍増する。その結果、2014年3月現在、BPJSで来院する患者が一回の来院で使える医療費は昨年までより減少してしまっている。Publicの医療財源が急激に増えるわけではないため、中期的にもBPJS対象者の一人当たり医療費が大きく増えることはない。国民皆保険化により、社会保障としてのPublic セクター、よりよい医療サービスの提供主体としてのPrivateセクター、という棲み分けは、今後ますます鮮明になっていくのではないだろうか。

 Public とPrivateと並んで大きな違いがある、とインドネシア人医療従事者が口を揃えて話すのが、「都市部と農村部」の差、より端的に言えば、「ジャカルタとジャカルタ以外」の差である。ジャカルタ特別州は、2013年時点で1,000万人以上が居住するインドネシア最大の都市であり、今でも地方からの人口流入が進んでいる。したがって、多くの場合、外資系企業は「まずジャカルタから」展開する、という戦略で参入する。おかげでジャカルタは医療施設、医療従事者、医薬品や医療機器が比較的揃っており、企業間の競争も極めて激しい。医療機器などは、先進国の病院顔負けの立派な機器が揃っている病院もあるし、医薬品が不足している、という話もまず聞かない。一方で、全てがジャカルタに集中する結果、ジャカルタ以外の都市や農村部では医療に関わるヒト・モノ・カネが圧倒的に不足している。例えば、農村部に関して、「専門医を見つけるのはほぼ不可能」「医療従事者が少ないため、早期診断も期待できず、まだ診断の精度も低い」と、国土に均質な医療環境が整わない現状に高い問題意識を持っているインドネシア人医療従事者は多い。筆者は昨年、インドネシア最大手の民間病院チェーンのパレンバンに勤務するドクターと話をする機会があったが、パレンバン、しかも最大手の民間病院ですら、医薬品の供給が十分に行き届いてない、という話を聞いて驚いたことがある。こうした話は少なくともジャカルタでは全く聞かれなかったからだ。

図D:インドネシア各島のGRDPとASEAN周辺国のGDP(2010)

 ジャカルタ以外は市場性がないのか、と言えば必ずしもそうではない。図D はインドネシアの主要各島とASEAN近隣国のGDP(GRDP)を比較したものである。これを見ると、実はスマトラ島単独でもベトナム一国と同程度、カリマンタン島もミャンマーと同程度の経済規模があることがわかる。また、各州の一人当たりGRDP、図Eを見ると、電子機器産業の集積地であるリアウ州や、天然資源が豊富な東カリマンタン州などは、ジャカルタ特別州と比べても遜色のない裕福で魅力的な地域であることがわかる。「競争の激しいジャカルタだけを見ずに、しっかりと各地域の特性を見極めて参入するのが今後は重要になるが、そこまでしっかりとした分析をして参入してくる外資系企業はまだ少ない」とは、あるインドネシア人の民間病院経営者の談だ。

図E:インドネシア各州のGRDPとASEAN周辺国のGDP(2010)

 「Public とPrivate」「ジャカルタとジャカルタ以外」と並んでもう1つ紹介したいのが、「国内と海外」、いわゆるメディカルツーリズムだ。インドネシアでは、国民の医療に対する信頼が必ずしも高いとはいえない。その一方で近隣のシンガポール、タイ、マレーシアがメディカルツーリズムに注力している国々だということもあり、年間約60万人のインドネシア人がよりよい医療を求めて海外に渡航している。その多くは、シンガポールとマレーシアへのメディカルツーリズムだ。

 図Fは図Cにマレーシア、シンガポールを加えたものである。マレーシアへ渡航する患者は、北スマトラを中心に健康診断のためにペナン島やクアラルンプールを訪れる患者が多く、一人当たり医療費は年間200ドル程度だ。一方のシンガポールには富裕層を中心に「治療」を目的に渡航しているケースが多いようで、一人当たり3, 500 ドルの医療費がインドネシア国内から流出している。

図F:メディカルツーリズムによる患者の流出

 実際、ローランド・ベルガーでも、シンガポールやマレーシアの病院や政府系機関から、「今後数年間でインドネシアからの患者流入はどの程度見込めるか」「どういう施設づくりをすればインドネシアからの患者がより一層増えるか」といった相談を受けることがある。「社会保障としてのPublic、よりよい医療サービスとしてのPrivate、という棲み分けがより一層進む」と前述したが、Privateセクターの供給量やサービス品質が需要に追いつかなければ、患者が海外に向かう傾向に拍車がかかるだろう。特に、メダンなどの北スマトラの都市は、シンガポールやマレーシアのペナン島へのアクセスがいい一方で、前述のとおり医療インフラは未だ脆弱である。海外へ渡航する患者がどの地域のどんな患者なのかを見極めると、ピンポイントでこうしたニーズを取り込むことも可能かもしれない。

 以上見てきたとおり、一口にインドネシアと言っても市場は細分化されており、それぞれのセグメントの特性は大きく異なっている。インドネシアが持つ多様性を現地現物で理解し、実態に即した市場の理解とターゲットセグメントの明確化が「期待と現実の乖離」を解消する第一歩である。

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