トラウマを知り、人間のしくみを知る。「発達性トラウマ」の理解が人と組織を大きく変えるITmedia エグゼクティブ勉強会リポート(1/2 ページ)

近年、理解がすすんできた「トラウマ」。実は誰もが抱えているこの「トラウマ」を理解することで、職場づくりが大きく変わってくるという。トラウマを理解することで、真の意味で生産性、イノベーションの源泉となる職場を作ることができるという。

» 2023年10月17日 07時02分 公開
[松弥々子ITmedia]
公認心理師 みき いちたろう氏

 ライブ配信で開催されているITmedia エグゼクティブ勉強会に、公認心理師のみき いちたろう氏が登場。2023年2月に上梓された著書『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』をもとに、『あなたの職場が働きづらいのは、実は“トラウマ”のせいかも? 〜「発達性トラウマ(トラウマ)」を知れば、人と組織は大きく変わる〜』というテーマで講演を行った。

 大学在学中からカウンセリングに携わり、20年以上の臨床経験をもつみき氏は、ブリーフセラピーカウンセリング・センター(B.C.C.)を設立し、トラウマ、愛着障害、吃音などのケアを専門にカウンセリングを提供している。著述活動やテレビドラマの制作協力も行っており、「遺留捜査」や「科捜研の女」などの医療監修を担当している。

身近になった「トラウマ」への理解

『発達性トラウマ「生きづらさ」の正体』(Amazon)

 よく聞かれる「トラウマ」という言葉だが、どのようなイメージがあるだろうか。特別なできごとに遭遇した人が被る特別な事象、というイメージを持つ人が多いかもしれない。しかし、トラウマは特別なものではなく、日常にある慢性的なストレスによって生じるもので、近年は誰もがトラウマを負っているといわれるようになった。仕事でのパフォーマンス低下、対人関係の問題、うつ症状、なども実はトラウマが原因と考えられている。

 現在はトラウマを負うと発達障害ととてもよく似た症状が生じるということも分かってきている。これは「第四の発達障害」と呼ばれ、発達障害と疑われる場合の原因の多くが、実はトラウマ、愛着障害といった後天的な環境由来ではないかと考えられている。

 近年、急速に研究が進んできた「トラウマ」とは、メンタルヘルスのみならず、人間の本質(生きやすさ、働きやすさ)にも関わる重要概念といえる。つまり、トラウマを理解することが、マネジメント、職場の生産性や創造性の改善にも役立つのだという。

トラウマによって生じる身近な症状

 トラウマによって生じる身近な症状には、緊張しすぎる「過緊張」、気を使いすぎる「過剰適応」などがある。これまではトラウマとはとらえられてこなかった症状が、トラウマが原因で、これらのケースで共通するのは、成長過程で受けた慢性的なストレスの存在だ。一見「どこにでもある」と思えるような家庭の不和や親の過干渉など、身近な事象からトラウマが生じている。

 「最近は、子どもの前での夫婦げんかをするのは、子どもに深刻なダメージを与えるということが分かってきています。他にも、テレビを見ながらタレントの悪口を言い続けたり、親族やご近所の方の悪口を子どもに聞かせ続けたりするのも、大きなトラウマの原因となります」(みき氏)

 これまでなかなか研究や理解が進まなかった「トラウマ」だが、近年になり、やっとその状況が変わりつつある。

トラウマをめぐる経糸と緯糸

 現代的な意味でのトラウマは、19世紀後半の産業革命から始まるといわれる。産業革命で鉄道などができると、日常の些細なミスから大惨事が生じはじめた。鉄道事故などのあと、体に目立った外傷はないのに心身に不調をきたす人が続出したのだ。そういった人にイギリス人外科医のジョン・エリクセンが「鉄道脊椎症」と名付けたのが、初のトラウマに関する診断名といえる。

 第一次世界大戦後、目立った外傷はないのに心身に不調をきたす兵士が続出し、「シェルショック」と名付けられた。また、心理学者のピエール・ジャネや精神科医のジークムント・フロイトがヒステリーの研究を行い、原因に幼少時のトラウマ体験や性的虐待が原因ではないのかと見立てていた。しかしその証明は難しく、学会からも激しい批判を受け、フロイトも研究の方向性を転換させてしまった。

 その後は、なかなか研究や理解が進まない無関心の時期が続き、本格的にトラウマが認知されるのはベトナム戦争を経て、1980年代以降のこととなる。

 やがて、1992年にジュディス・ハーマンという精神科医が「複雑性PTSD」を提唱し、2018年にWHOで正式な診断基準として採用される。それまでは、身近な生きづらさや困った事象は、発達障害、パーソナリティ障害、HSPなどさまざまな代替概念で語られてきた。

 こうした進まない状況を、トラウマ以外の領域での研究や調査の進展、社会の変化が緯糸として大きく変えていくことになる。その変化とは、主に以下の4項目だ。

  • 1.幼少期の逆境体験とその後の心身の健康との関係についての量的な研究の進展
  • 2.脳科学による、虐待が及ぼすダメージの可視化
  • 3.生理学による理論的な裏付け
  • 4.虐待やハラスメントに対する社会の認識の変化

1.幼少期の逆境体験とその後の心身の健康との関係についての量的な研究の進展

 「愛着研究」と「ACE研究」の2つについて、大きく研究が進んだ。まず愛着とは、安全基地とも表現される。この愛着を土台にして人間は成長していく。愛着が不安になると、社会適応、心身の健康が阻害されることが分かっている。次にACEとは、小児期逆境体験のことで、約1万7千人に調査したところ、成人の心身の疾患と、小児期の逆境体験には関連があることが明らかになっている。

2.脳科学による、虐待が及ぼすダメージの可視化

 1990年代以降、画像診断装置(fMRI、MRS)が進歩し、実際に虐待などによってトラウマを負った人の脳の実情が明らかになった。トラウマを負った人の脳には実際に脳(≒心)に傷が確認でき、ある部位は膨張し、ある部位は収縮し機能障害を引き起こすことがあると分かってきたのだ。例えば、性的虐待を受けると視覚野の容積が減少し、体罰では前頭前野が減少するといったことが明らかになっている。

3.生理学による理論的な裏付け

 精神生理学の研究者であるスティーブン・ポージェス提唱したポリヴェーガル理論により、自律神経の成熟が社会適応と関連していることが明らかになった。ボディワークなど、トラウマの治療を行う治療家たちがこの理論に基づいて新しい心理療法を開発している。過緊張、過剰適応なども実は自律神経の失調などが原因として考えられる。

4.虐待やハラスメントに対する社会の認識の変化

 アメリカでは1960年代ごろから児童虐待が公式に認知されるようになった。日本においても虐待や親子・家族関係の問題への理解が進んでいる。ハラスメントについては、2000年代以降急速に理解が進む。日常でのコミュニケーションに潜む、精神に及ぼす深刻なダメージが明らかになってきたといえる。

 上記の4つの緯糸などを経て、社会がトラウマを認知、理解するのに必要な理論やエビデンスがほぼ出揃ってきた。緯糸(周辺の研究)がインフラのようにして支え、経糸(トラウマ研究)と織りなすようにして、トラウマは理解、認知されるようになってきた。もはや、トラウマはその存在が問題になることはなく、それをいかに予防、治療していくのかに焦点が当たるようになった。

トラウマとは、「ストレス障害」である

 トラウマの理解を妨げてきたもう1つの要因に、トラウマを「心の傷」として特別視してきたことがある。トラウマは心の傷と理解せず、「ストレス障害」と捉えることが、実際に即していて、当事者の日常の実感とも連続性がある。

 「トラウマ≒ストレス障害+ハラスメントともいえます。トラウマは、ストレス障害に加えてハラスメントを受けることで、より複雑化していきます」(みき氏)

 では、ストレスとはいったい何なのだろうか。ストレスとは生理学者のハンス・セリエによって発見され、「生体の変化」を意味している。ストレスを生む刺激のことを「ストレッサー」という。ストレスに対する誤解の中には、「ストレスが心身にとってダメージになるかはストレスの“強さ”によって決まる」というものがあるが、これは間違っている。大規模災害があっても、数値の上では多くの人はPTSDとならずに回復することからも分かるように、生物は短期の大きなストレスには比較的耐えることができる。しかし、“弱い”ストレスが慢性的にかかるような状況に対処することは、生物にとっては難しい。戦争によるストレスもその多くがローリスクストレッサー(強度の低いストレス)によるものと指摘されている。

 「ベトナム戦争でも、兵士にPTSDが増えたのは終盤だといわれています。もう負けそうだという敗北意識、戦局も予測できず、飛行機などの短時間での復員による感情表出やフラストレーション発散の制限、反戦運動などによる世間の風当たりの強さなども、PTSDの要因になりました」(みき氏)

 また、日常のストレスもトラウマとなることが知られている。さまざまな日常のライフイベントにかかるストレス点数を数値化していったところ、「配偶者の死」が最もストレス点数が高く83点で、「離婚」が72点、「夫婦げんか」が48点だった。しかし、一見プラスと思われるライフイベントでも高いストレス点数が付けられている。「結婚」が50点、「新しい家族が増える」47点、「長期休暇」35点といった点数がついている。

 これらのストレッサーの合計値と精神疾患との関連を調べたところ、400点以上で78.8%、300点台で67.4%、200点台で61.2%、100点台で57.1%、100点未満でも39.3%の人にリスクがあることが分かっている。

 さらに、心理学者のリチャード・S ・ラザルスは、「重大なライフイベントだけでストレスを定義づけてしまうのは、ストレス対処の方法を解明するうえで適切ではない」「驚くべきことにわれわれは、この日常的混乱のほうが重大なライフイベントよりも、健康障害にとって重要な要因であることを見いだした」と述べている。こうした視点で見直してみると、日常には、仕事でのストレス、家庭内でのストレス、対人関係のストレスなど、危険なストレスがたくさんあることが分かるだろう。とくに、ハラスメントの影響は甚大といえる。

ハラスメントとはなにか?

 フランスの精神科医 マリー=フランス・イルゴイエンヌが発見した「ハラスメント」だが、元々はアメリカの人類学者グレゴリ・ベイトソンが発見した「ダブルバインド」という概念が、ハラスメント発見の端緒となっている。ダブルバインドとは、矛盾するメッセージが同時に寄せられた結果、人間の自由な精神活動が妨げられる現象をさす。

 例としては、上司が自己都合や不全感から行っている言動に最もらしい理屈をつけて、部下を偽ルールに従わせることなどがそれにあたる。ハラスメントは社会性や、よりよく生きようとする意思を悪用して人間関係に入り込んでくる。ハラスメントはトラウマの心理面での原因の1つで、長引くトラウマは、必ずハラスメントが影響しているといえる。

トラウマによって“自分”が失われる

 トラウマの中核とは、“自己の喪失”で、愛着不安、自律神経、脳の失調、ハラスメントなどによって自分がなくなってしまう。

 「トラウマを抱えた人というのは、ログインしていないスマートフォンみたいなものです。一見するとちゃんとしたスマートフォンであるけれど、自分のIDでログインできていないため、ネットワークがつながらなかったり、機能が制限されていたり、意図するメッセージが送れないということです」(みき氏)

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