森ビルが挑む、体験価値向上のためのDX推進。統合システムの構築時に直面した、使われないという壁を、丁寧な社内営業や、コア領域を見極めた内製化で突破したプロセスを解説する。
DX(デジタルトランスフォーメーション)推進において、「多額の投資をして統合システムを構築したものの、現場に全く使われない」「内製化を進めたいが、限られたリソースの中で何から手をつけるべきか分からない」といった悩みを抱える経営層・マネジメント層は少なくない。
「六本木ヒルズ」「麻布台ヒルズ」など、数々の大規模都市開発を手掛ける森ビルは、デジタル化の過程で同様の壁をどう乗り越えたのか。同社の麻布台ヒルズ運営推進室 ウェルネス推進部 課長 兼 タウンマネジメント事業部 TMマーケティング・コミュニケーション部 ヒルズネットワーク推進グループ 課長である中嶋俊幸氏は、同社が推進する「ヒルズネットワーク」におけるDXの軌跡と、社内浸透のプロセス、そしてコア領域を内製化していくための戦略について語った。
森ビルは「都市を創り、都市を育む」という理念を持っている。中嶋氏は講演の冒頭、激化する都市間競争において、東京が強くならなければ日本の国力も衰退してしまうという強い思いで都市づくりを進めていると語った。
同社が考える「都市を創る」とは、単に巨大な高層ビル群を建てることではない。住む、働く、遊ぶといった都市の要素をコンパクトに集約し、そこでさまざまな「複合的な体験」を生み出すことこそが、都市の価値を創るのだという。さらに、箱を作って終わりではなく、完成後も賑わいを創出し、街を維持・向上させていく「都市を育む」プロセスを重視している。実際、開業から20年以上が経過した六本木ヒルズは、いまだに過去最高の来街者や売り上げを更新する年もあるという。
この「複合的な体験の創出」という、森ビルのコアバリューをさらに引き上げ、競争優位性を確立するための手段として位置付けられたのが「DX」である。
しかし、2021年頃から本格化したDX構想「ヒルズネットワーク」の裏には、大きな組織的課題があった。
「実際の街では、複合的な体験が起きています。例えば、森ビル内のオフィスにお勤めの方が、敷地内に新しくできたレストランで食事をして帰るといったことが日常的にあるわけです。しかし、以前はシステムが縦割りだったため、オフィスと商業施設のデータを横断的に見ることがなかなかできませんでした。レストラン側からすれば、来てくれたお客さまがどこのオフィスワーカーなのか分からない。顧客を理解するうえで非常に非効率な状態でした」(中嶋氏)
これを打破すべく、森ビルは「デジタルレイヤー」の統合に踏み切った。バラバラだった顧客IDを共通化し、アプリを通じて一人一人にパーソナライズされた情報を届ける仕組みを構築。同時に「組織レイヤー」も横串しを刺し、事業部を横断したサービスの提供を可能にした。
森ビルには、オフィス事業や商業施設事業のほか、住宅事業、文化事業など、多くの事業部がある。先に挙げた例のほかにも、「美術館を鑑賞した後に食事をし、レジデンスに帰宅した」といった顧客行動も把握が可能になった。住宅部門からすれば「この居住者がこういう展覧会に関心があるなら、今後情報を届けてみよう」とか、商業施設側や文化施設側は「すぐ近くに住む居住者だったなら、今度イベントにご招待してみよう」などと動くことができる。
顧客の解像度が上がり、おもてなしのクオリティが向上することで複合的な体験を加速させる。これが、森ビルが目指す「DXを通じて街の複合的な体験を充実させていく良いスパイラル」の正体である。
デジタル基盤の統合は、理想的な顧客体験を描き出す一方で、社内浸透という現実的なハードルを生み出した。これは、多くの企業が陥るDXの落とし穴である。
森ビルでは、投資効率の観点から既存システムを全てリプレースするのではなく、既存のシステムを生かしながら、顧客関係を管理するCRMなどの横断的な統合基盤を追加構築するアプローチをとった。これはコストを抑え、各部署の追加負担を減らす賢明な判断であったが、同時に「致命的なリスク」もはらんでいた。
「既存のシステムも業務フローも生きたままなので、極端に言えば、新しく作った横断システムを使わなくても現場の業務は回ってしまうのです。つまり、『作ったけれど使われない』というリスクです。これが一番悲しい結末ですよね」(中嶋氏)
この壁を乗り越えるため、中嶋氏が注力したのが「社内ユーザーの獲得」である。システム導入部門は往々にして、機能要件を満たしてリリースした時点で満足してしまいがちだが、本当の勝負はそこから始まる。
森ビルは独立したDX部門を作るのではなく、街の運営を横断的に統率する既存の部署「タウンマネジメント事業部」内にデジタル部門を設置。さらにシステム連携を行う各事業部署に兼務者として担当者と責任者を配置し、相談が集まる環境を構築した。
中嶋氏は、新しいシステムの付加価値として従来の業務フローではできない横断的なサービスやデータ活用を提示するだけでなく、各部署からの要望を日々収集し、細かく改修するPDCAサイクルを回し、「このシステムに乗らないと損だ」という環境を作り上げていった。
「ただベネフィットを理解してもらうだけではダメで、実際に使ってもらわなければ意味がありません。そのために、私たちは『社内へのおせっかい営業』と呼ぶ活動を行いました。社内ユーザーも一人の『顧客』と捉え、定期的に社内説明会を開いたり、各部署の業務の相談に乗ったりしました」(中嶋氏)
当初は、各部署のニーズを聞き出し、勝手にデータを分析して「こんなことが分かりますよ」と分析結果を持ち込むような、泥臭いアプローチまで行ったという。時には的外れな提案をしてしまう失敗もあったが、自らのコストで積極的に価値を提供し続けることで、徐々に社内ユーザーを獲得していった。
「社内ユーザーを獲得することは、結果的に社外ユーザー獲得にも直結します。社内の味方を増やし、彼らがシステムを自走して使えるようになる組織が、本当に強い組織なのです」(中嶋氏)
DXを推進するリーダーには、高度なITスキルだけでなく、現場の反発や無関心をオセロのようにひっくり返していく社内営業力、チェンジマネジメント能力が不可欠であることを、中嶋氏の取り組みは示唆している。
システムの構築と社内浸透が進む中、次なる課題として浮上したのが「データ分析プロセスを中心としたコア領域の内製化」である。
DXの本質は単なるツールの導入ではなく、社員の意識や企業文化の変革にある。その文脈において、中核となるデジタルスキルの内製化は避けて通れない命題だ。しかし、事業会社がいきなり全ての領域を内製化できるほどのリソースもノウハウも持ち合わせていないのが現実である。
ここで中嶋氏が強調したのが、明確な「優先順位」の策定である。
「外注コストを削減したいのか、ノウハウを蓄積したいのか。内製化には教育コストもかかりますし、人材を維持し続ける会社の覚悟も必要です。だからこそ、どの領域を内製化すべきか、優先順位を慎重に考えました」(中嶋氏)
中嶋氏が下した判断基準は明快だ。「ビジネスへの深い理解」が必要な領域は、外部ベンダーに説明するだけでも莫大な時間がかかり、一度外注するとブラックボックス化して外しづらくなる。したがって、ここは最優先で内製化する。一方で、高度だが一時的にしか使わない専門技術は、社内での教育・維持コストが見合わないため、外部の力を活用するという切り分けである。
とはいえ、データ分析立ち上げ当初、メインの担当者は中嶋氏しかおらず、しかもすぐに自身が別プロジェクトへアサインされ、3カ月間実質的に動けない状態になることもあったという。一方で、経営層からのデータ分析に対する期待は高く、成果を出すことも求められていた。
この危機的状況を救ったのが、単なる外注ではなく「伴走支援」を行えるパートナー企業、株式会社メンバーズの存在であった。業務を丸投げするのではなく、同社のデータアナリストによる二人三脚の常駐サポートを受けることで、社内に確実なノウハウを蓄積し、内製化のスピードを加速させていったのである。
常駐サポートを受けることで、社内に確実なノウハウを蓄積し、内製化のスピードを加速させていったのである。
現在、中嶋氏のチームはさらなる内製化を目指し、「データ分析工程全てをAIによって内製化すること」にチャレンジしている。人間が整えたデータを分析する工程だけではなく、圧倒的に工数がかかる上流のデータセット作成からAIを活用する試みだ。
「データの上流で少しでもミスがあると、下流ではなかなか気付けず、経営判断をミスリードしてしまう危険性があります。生成AIは解釈は得意ですが、ミスが許されない複雑なデータセット作成工程では暗黙知も多く、処理がブラックボックス化するAIには任せづらいというところが課題でした。これを防ぐために、社内にある暗黙知をAIにインプットし、AIの処理を人間がコードベースで確認できる仕組みとすることで、ミスが起きないような体制を作ろうとしています」(中嶋氏)
これが実現すれば、作業的な業務から解放され、より付加価値の高いデータ活用領域へとリソースをシフトさせることができる。さらに、将来的にどのようなAIインターフェースが登場しようとも、「AIが読み取りやすいデータ基盤」が既に社内に存在することは、森ビルにとって決定的なアドバンテージとなる。
最後に中嶋氏は、DX推進部門のリーダーとして最も重要な心構えを語った。
「データ分析やAI活用、内製化そのものが『目的化』してはいけません。世の中的にAIがもてはやされていても、『本当に自社にとって意味があるのか』を常に問い続けること。そして、意味がないと判断すれば『これはうちではやらない』と決断する勇気を持つこと。我々は社内でデータ分析やAI活用を推進する立場なので相反するように聞こえるかもしれませんが、現場に一番近い我々こそが、公正な目で考え抜くべきだと考えています」(中嶋氏)
都市という巨大なハードウェアをアップデートし続ける森ビルは、システムと組織という見えないレイヤーにおいても、着実で泥臭い変革を進めていた。バズワードに流されず、真の顧客体験向上に必要なものだけを見極め、社内を巻き込んでいく。その過程で培われる「組織の自走力」こそが、DXを成功に導く最大の鍵となるのだろう。
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早稲田大学商学学術院教授
早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授
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明治学院大学 経済学部准教授